原爆だけは許さんぞ ②
じつはこの二か月ほど前、戸田はある雑誌の取材で「原子爆弾だけは許せんぞ、おれは決めているのだよ。アメリカでも、ロシアでも、どっちであってもそういうことは断じて許さん」と熱弁を振るっている(『総合』1957年9月号)。取材は七月十二日──蔵前国技館で「東京大会」が行われた日だった。池田が囚われた「大阪事件」の渦中にも、戸田は核兵器廃絶に向けて思索を巡らしていた。
敗戦から12年。「若人の祭典」に参加した人々には皆、多かれ少なかれ戦争体験があった。長崎から参加した梅林二也(長崎総県議長)。
「私は二十二歳でした。戸田先生の話を聞いて『そのとおりだ、本当にその通りだ』と胸が熱くなって、帰りの夜行列車でも興奮してなかなか寝られなかった」と語る。
梅林の父である二八は、三菱造船の技術者だった。1944年(昭和19年)、実家の長崎から広島に転勤になり、家族で移り住んだ。
「敗戦の年、私は10歳でした。疎開先になじめず、長崎に戻って祖母と二人暮らしをしていました」。