EIKOの気まぐれ闘病日記 -97ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「生涯、忘れざる人々」 ②


 十月十八日。浪速区の宮本文(婦人部副本部長)は大阪地裁の傍聴席にいた。現在九十二歳。

「裁判の前の日、婦人部の先輩から『池田先生の裁判、明日や』と聞いたんです。傍聴できたのは生涯の誇りです」と振り返る。

 居ても立ってもいられなくなった宮本は、家事を片付け、一歳半だった次男を背負って地下鉄に乗った。

「裁判所なんて行ったことないし、中に入れるんかどうかもわからんし、恐る恐るでした、七、八十人ほど入れる部屋で、傍聴席の長椅子は粗末なものでした。私が子どもがぐずって迷惑をかけたらあかんと思い、後ろのほうに立っていました」。


 三か月前の「大阪大会」には夫とともに場外で参加していた。

「法廷で先生の名前が呼ばれた時、なんで先生をこんな所へ来させてしまったのか、怒りと申し訳なさで胸がいっぱいになりましたよ」。

 「生涯忘れえぬ日。二時より、初裁判。人定尋問にて終わる」(十月十八日の池田の日記)。四年半にわたる法廷闘争が始まった。

  「生涯、忘れざる人々」 ①


 「疲れきった身体を、引っ下げて帰宅」「すぐ横になる」(一九五七年九月二十五日の日記)。

「信仰、茲(ここ)に十年。次の十年の、運命は如何。人生は、勝負だ。新たな荒波が、待っているように思われてならぬ」(同二十六日)。

 残暑を過ぎても、池田の体調との闘いは続いた。

「身体の具合、全く悪し・・・・・十年、一剣を、磨かねばならぬ・・・・・それにしても、根本は身体だ。強健なる体力だ」(同二十七日)。

「色心ともに、一日中だるし」(十月七日)。

「無理な一日。そのためか──心身の調子、芳(かんば)しからず」(十月十一日)。

 「裁判が十八日である。無罪を祈念し奉る・・・・・自己の真の宿命打破」

「疲労、日々に重なる。妙は蘇生の義なれば、必ず、再生の生命やあるらん」──そう記した十月十三日。池田は静岡の沼津で組長会に出席した。大阪大会を終えて帰京する際、沼津駅で見送ってくれた人々への感謝も込めて、全力で励ましている。また「堂々と 地涌I(じゆ)乃菩薩の 自覚みち 怒涛を乗りこへ 広布ぞ使命と」等々、何枚も色紙に揮毫して贈った。初公判を前に、池田の”怒涛の日々”は激しさを増していった。

  原爆だけは許せんぞ ⑤


 「原水爆禁止宣言」は、戸田の全身全霊を込めた平和のへのメッセージだった。戸田亡き後、池田は戸田の遺志を形にしていく。その行動範囲は核廃絶の分野だけにとどまらなかった。

 

 「原水爆禁止宣言」の11年後、池田は学生部総会で「日中国交正常化提言」を発表した(一九六八年)。その日付は「九月八日」である。これまで池田は10度にわたって訪中を重ねてきた。


 さらに「原水爆禁止宣言」の一七年後、池田は初めてソ連(現在のロシア)の大地を踏む(一九七四年)。合計六度に及ぶロシア訪問の第一歩となった。その日付もまた「九月八日」だった。

 

 東西冷戦の時代、池田は西側が敵視していた中国、ソ連という両大国と、地道な民間外交の歴史を築いていく。中ソの対立も深刻化していた。池田はぞれぞれの突破口を開いた日付に、戸田が「原水爆禁止宣言」を発表した日と同じ「九月八日」を選んだのである。

  原爆だけは許せんぞ ④


 幸い、広島の家族は無事だった。しかし一年半後、梅林は急に髪の毛が抜け、下痢が続き、疲れやすくなった。症状がおさまっても、周囲に原爆症で苦しむ人が多く、不安は消えなかった。

 「学会に入ったのは父の脳溢血がきっかけです。昭和30年でした」。社宅に住む父の知り合いが、母のトキ子を座談会に誘った。医師から再起不能だと言われていた父の二八は、一年後職場復帰を果たした。


 男子部で活動し始めた梅林は「大阪大会」にも参加している。「長崎から行った16人全員、公会堂の外でずぶ濡れになりましたよ」笑う。

 大会が終わった後、池田は公会堂を飛び出し、豪雨に打たれた場外参加者に声をかけて回った。

「私たちは『堺支部』や『長崎班』と書いた旗を掲げていました」。長崎の旗を目にした池田は「遠くからご苦労さまでした」と声をかけ、全員と握手している。

 梅林はやがて長崎の中心者となり、平和運動にも力を注いだ。創価学会が総力を挙げて取り組んだ反戦出版のうち、長崎を舞台にした証言集は合計7冊。梅林も含め、実に300人に及ぶ戦争体験が収められている。

  原爆だけは許せんぞ ③


 四五年(昭和20年)8月9日の長崎は、朝からよく晴れていた。

「空襲警報が解除されて、友だちと防空壕の近くで川遊びをしていました」。昼前だった。見たことのない強烈な光を浴びて、目が眩んだ。

「びっくりして川から飛び出し、防空壕に裸足のまま走り込みました。その直後、ものすごい音がして爆風に襲われたんです」。

 午前11時2分、アメリカ軍の爆撃機B29が長崎市上空で原子爆弾を投下した。第一目標は北九州の小倉だったが、途中で長崎に変更されたのである。


 梅林たちは崩れた防空壕から這い出して空を見上げ、急いで家に戻った。

「さっきまでの青空は消え、真っ黒い入道雲のような煙と火柱がどんどん広がっていました。祖母の家のあった日の出町は、山で爆風が遮られて全壊を免れました」。

 コールタールのような黒くて粘っこい雨に打たれた。洗っても洗っても肌から落ちなかった。広島にも同じ爆弾が落ちたらしいと聞かされた。

「『もしかしたら家族が戻ってくるかもしれない』と祖母と話し合って、二人であてもなく毎日のように尾ノ道駅まで通いました」。


 「死の同心円」とも言われた長崎の爆心地を、10歳の梅林は歩き続けた。

「一面の焦土を見て、生きることは苦しむことなのかと思いました」と振り返る。「黒焦げの荷馬車のそばに、炭の塊みたいになった人が倒れていました。性別もわかりませんでした」。長崎駅も、浦上天主堂も、視界に入る建物という建物が、見る影もなくなっていた。

「市内のあちこちで廃材を使った火葬が始まっていて、浦上川は数えきれない遺体で埋まって・・・・・無残な光景でした」。