EIKOの気まぐれ闘病日記 -96ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  疲労困憊の関西の夜 ③


 弟と話し合い、これまでの店を畳み、決意を固めて転職した。しかし「自分の甘さをいやというほど思い知った」という。「製品を作るだけのはずが、販売から集金まで引っ張り回され、休みはなく、工場に泊まり込み、給料は遅配です。先生のあの厳しい指導がなかったら、『この苦境を乗り越えてみせる』などとは到底思えませんでした」。辻が転職した工場は、三年後にようやく安定した。

 

 「今から思えば、初公判の翌日だったのに、そんな素振りは微塵を見せられなかった。しかもたくさんの会合の合間に、時間をこじ開けてくださったんです。何年も経ってから、『怒涛の逆巻く荒海に身を置いて』という言葉は、当時の先生の境遇そのものだったんだと気づきました」

 

 初公判の後、池田が東京に戻ったのは十月二十一日だった。

「朝、七時三十分──東京着。結局、夜行列車は疲れる。妻も、疲れきったことであろう」。その足で戸田の自宅に向かった。「朝の先生による勉強──『日本歴史』に入る。藤原時代より。先鋭に、種々報告」。

 翌二十二日。「先生より、たびたび『読書』せよと注意あり。『あの本も読め、この本も読んだか』と」。

 「朝、先生より、厳しく叱らる」(十月二十五日)──法廷闘争が始まった後も、池田に対する戸田の個人教授は続いた。

 この年の瀬、創価学会は七五万世帯に達した。戸田は、会長就任時の誓いをついに果たしたのである。

 

  疲労困憊の関西の夜 ②


 その日は十月十九日だった。玉置と辻が関西本部で待っていると、外から戻ってきた池田はすぐ数人の幹部と別室に入ってきた。

 打ち合わせを終えた池田に、玉置はすかさず声をかけた。辻は緊張しながら、今の商売は見通しも悪く、誘われた会社はいい条件で、転職しようと思います、と話した。

 聞き終えた池田は険しい表情になり、口を開いた。

「君は、商売の見込みがないとか、誘われた会社の見込みがあるとか言っているが、問題は君自身が見込みのある人物なのかどうかなんだ」。


 辻は「えらいこと言うてしもうた」と後悔した。池田の指導の厳しさは、二十三歳の辻の想像を超えていた。

「自分がダメな人物なら、どんな立派な会社に行き、商売をしても、成功はしないよ。まだ君は世間の厳しさを知らない。社会を甘くみてはいけないよ」。

 さらに池田は「今、会社が好条件だと話したね。今の若さですべてが思うようにいったらm君の人生はおわりだよ」とも語った。「人生はドラマなんだ。ドラマはうまくいったら終わるんだよ。ぼくはそんな人生は嫌だな。怒涛の逆巻く荒波に身を置いて、それを乗りこえ、乗りこえ勝っていく。それがぼくの人生だ」。

 ──これから何があっても、血を吐くような苦しいことがあっても辞めない、という決意があるならやってみろ。逆境で本当の信仰の力がつく。何にも代えられない財産が築ける。いいことばかり夢見て行くようでは失敗するぞ──「一言一言、腹に食い入るような指導でした」と辻は振り返る。


  疲労困憊(こんばい)の関西の夜 ①


 初出廷の翌十九日。池田は激しく動いた。京都の宇治方面を訪れた後、「特急にて、再び関西本部へ。男子部幹部会、女子部区長会に出席。更に、船場の地区部長会等に出席、指導。終わって、青年部の個人指導等」「疲労困憊の、関西の夜となる。将来、幾百千の同志が、ここより、堂々と巣立ちゆくことであろう。二時近く、ぐったりと床につく。心配そうな、妻の顔」。


 辻仁志(総兵庫総主事)は大阪の港区に住む男子部員だった。

「何度か転職した後、大阪の港区の市場で弟と小さな雑穀商を始めました」。経営はうまくいかなかった。借金が増えて悩んでいた時、以前勤めていた会社の社長から「痛みに新工場を建てるから来ないか」と誘われた。

「私は特殊な金属加工の技術を持っていたので、その腕を買われての話でした」。


 仕事は製造のみ、定時で終わり、日曜は必ず休み、売上次第でボーナスも弾むという。

「いい条件の話でした。気軽な気持ちで松島支部長の玉置正一さんに相談しました」。

 玉置は戸田先生から「松島の舎利弗(しゃりほつ)」と呼ばれ、面倒見のよさで知られていた。その玉置が目を輝かせて「ちょうど池田先生が来てはるみたいやから、関西本部へ行こう」と言い出し、辻は仰天した。

「そんなつもりやなかったから、どないしようと思いましたが、ついて行きました」。

  「生涯、忘れざる人々」 ④


 大会の後、池田は公会堂の和室に移動し、少人数で懇談した。当時三十六歳で「病苦と生活苦の中で無我夢中だった」という岡の手記には、池田から受けた二つの指導が記されている。

 一つは、日蓮の「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」という一節を通して「『病気は必ず治る!』と決めて強盛な信心を」。もう一つは「『立派な組織人』に成長してくださいよ」という一言だった。岡は「ずいぶん後になって・・・・・病を乗りこえ、班長を経て、地区部長になった頃、やっとあの指導の意味に気がついた」と述懐している。


 「名聞名利(みょうもんみょうり)」の幹部に悩まされることもあった。「やがて醜い敗者となって姿を消していった気の毒な人」も見た。手記は「先生は私にこの事を教えてくださったんっだ、と仏前で涙したものであった。以来、自らに厳しく『個人であると同時に組織人である』という気概で生きてきたつもりである」と続く。


 岡は大阪の枚方市駅前に住んでいた。

「生前の岡さんと長年一緒に活動しましたが、先生とそんな出会いがあったとは知らなかった」。野村勝喜世(枚方市、総県副総合長)は笑顔で語る。

「岡さんご夫妻のお宅が座談会場でした。腹を空かせた学生部によくご飯を食べさせたり、見事な達筆を振るって会合の垂れ幕を書いてくれたり。先生のおっしゃった『立派な組織人』って、ほんま納得ですわ。岡さんの人生にぴったりや」。

  「生涯、忘れざる人々」 ③


 池田は大阪事件の裁判で合計二十三回出廷した。出廷の前日、当日、翌日と可能なかぎり会合に参加し、学会員を励まし続けた。

 商大の大阪支部長である白木義一郎は生前、「本当に申し訳ない限りだが、法廷闘争で先生が来阪されるたびに関西の学会を強くしていただいた」と語っている。

 最初の出廷から、池田はぎっしり予定を詰めた。出廷前日の日記。

「少々小雨。東京駅、午前9時初の特急『つばめ』にて、大阪へ向かう。明日は、裁判の日。大阪の方々への挨拶のため、妻も同行・・・・遅くまで、同志と語る。生涯、忘れざる人々なり」(十月十七日)


 三等車で大阪入りした池田と香峯子は、四軒の家庭訪問を終えて、さらに懇談の場をもった。日記によれば休んだのは午前二時前である。

 出頭日の十八日。「夜、神戸方面に指導に走る」「遂に戦いは始まったのだ。今こそ、信心の前進の秋(とき)と知れ。友よ、次の勝利に、断固進もう。俺も、戦うぞ」

 この神戸方面とは、東灘の御影公会堂で行われた梅田支部の神戸大会である。同支部の壮年部員だった岡保は「黄色い裸電球が揺れていた」「あの日のあの出会いが、私の原点である」書き残している。