EIKOの気まぐれ闘病日記 -95ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「険しき山」を越えて ④


 戸田から指導を受けた数日後、柴田の自宅に封書が届いた。差出人の名前は「池田大作」だった。「会長先生が御多忙であります故・・・・・」と書き始められた手紙は、便箋六枚にわたる長文であった。

 「肺病ハ 絶対に 必ず、信心に依って治ります。会長先生もお若い時に(肺病)三期であったそうです。私も肺病でした。また何千、何萬の同志が、大御本尊様の大偉力によって良くなって居ります。此等の事実こそ科学です。而し、信心弱くして疑ってはなりません・・・・・・」


 池田は「医学を否定してはいけない」と念を押しながら、烈々たる確信をもって、血を吐き苦しんでいた柴田を励ました。

 ──朝晩の勤行で「一日も早く肺病を治し給え、広宣流布に活躍できる立派な青年にしてください」と、胸奥より祈ってごらんなさい。必ず必ず必ず、全快する事は疑いありません──

 ──栄養を取ること、寝ること、疲れる際は、身体を休めるように気をつけなさい・・・・・どうか御両親も兄弟の方も驚くほど良くなって、元気で一日も早くお会いできることを願って、祈ってやみません──


 「一介の男子部員である私を、ここまで励ましてくれるのか、と本当に勇気づけられました。昭和四十四年、旧・奈良本部(現・明日香文化会館)で池田先生に直接、回復したことをお伝えできました」。

 こうした戸田による直接、間接の指導によって自らを励まし、人生を再起した人々が、全国から青山葬儀所に集まった。大阪の関西本部でも焼香が行われたが、集まった人々が入りきらず、鶴橋駅に近い下味原交差点まで参列者の列が続いた。

  「険しき山」を越えて ③


 四月八日、戸田家の告別式には約十二万人が焼香に訪れた。

 「朝、先輩が迎えに来る。私は断る。師匠との最後のお別れの日である。私は私なりに、一人して先生宅にお邪魔したい。最後の先生とのお別れに誰人よりも淋しく、悲しい弟子は、私である。厳しい父であり、やさしい父であり、今日の私あるは、全部、恩師の力である」(池田の日記)


 四月二十日の学会葬では池田が司会を務めた。約二十五万人が参列した。八十の柴田和男(奈良県橿原市、副本部長)もその一人である。「大阪大会」では中之島公園の警備を担当し、場外参加者のために、五人がかりで木の枝に拡声器をくくりつけた。

 「大阪大会の二年ほど前、ある会合で戸田先生に質問しました。私は二十三歳でしたが、長年、重い肺病で苦しんでいました」と振り返る。

 戸田から指導を受けた数日後、柴田の自宅に封書が届いた。差出人の名前は「池田大作」だった。「会長が御多忙でであります故・・・・・」と書き始められた手紙は、便箋六枚にわたる長文だった。


  「険しき山」を越えて ②


 三月十六日には、6000人の青年部が参加して記念行事が行われた。

 その前後、池田が戸田に「3月は総登山がありましたので、(全国の幹部集まる)本部幹部会がまだです。何日がよろしいでしょうか」と指示を仰いだ時のことを、その場にいた関西婦人部の矢追久子が語り残している。

「戸田先生は『そうだな』としばらく考えておられ、『4月3日』と決められたのです。

 「(3月)1日の頃はお元気でいらっしゃったのに、だんだんお痩せになりました・・・・・医者は、病気は何もない、どこも悪くないというのですが」──婦人部の役員として大石寺に詰めていた矢追は、後ろ髪を引かれる思いで3月三十一日に関西へ戻った。

「列車の中で、周りの人がいぶかるほど涙があふれ、止めることができませんでした」。

 一九五八年(昭和三十三年)四月二日の夕刻、戸田城聖は五十八歳でこの世を去った。矢追はその日の夜半に訃報を聞いた瞬間、戸田と池田のやりとりを思い出した。

「あの時代、地方指導で全国に散っている幹部に一斉に連絡を取るのは、電報、電話と大変でした。戸田先生はご自分が亡くなった翌日に、全国の幹部が集まるよう指示されていた。不思議なことでした」。


 戸田が「いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ」と詠んだのは二年前の七月、大阪で参議院選挙に出馬した白木義一郎が勝った翌日である。「”まさか”が実現」(朝日新聞」の見出し)と驚かれるほどの快勝。いっぽう東京では、はるかに勝算の高かった候補が苦杯をなめた。

 「険しき山」──戸田の慧眼は、おそろしいほど正しく情勢を見抜いていた。その後、夕張炭労による宗教弾圧、池田の不当逮捕と、学会は経験したことのない迫害を立て続けに受ける。そして冤罪を晴らすための裁判が、池田の双肩にのしかかった。しかし、愛弟子の裁判の結果を、戸田が存命中に見ることはできなかった。




  「険しき山」を越えて ①


 戸田先生が生涯の最後に取り組んだ行事は、日蓮正宗に寄進した大講堂の落慶記念登山だった。(一九五八年三月)。三月一日から三十一日の一か月間で、じつに二〇万人が参加した。

 その真っ最中、池田は二度目の出廷のため大阪に向かった。検事が被告に対して罪を認めるかどうかを問う「罪状認否」である(三月六日)。

 起訴状は検察は、「創価学会選挙本部総指令」という、現実には存在しない肩書を捏造していた。池田はその誤りを指摘し、裁判長の田中勇雄を見据えて「訴因のような事実はありません」と起訴状の内容をすべてッ否定した。言うまでもなく、検察との全面対決である。

 とんぼ返りで戸田の待つ大石寺に戻り、無事故の運営に苦心した。

「(連日の)輸送指揮に、神経と体力、実に疲れた」と日記に綴っている(三月十九日)。

 

 「亡くなられる一か月前も、『今日は何を読んだのか』と尋ねられた」──池田は高校生向けの連載「青春対話」で、戸田との最後の日々に触れている(一九九七年三月二十六日付「高校新報」)。戸田は池田に「指導者になる人間は、何があっても読書を忘れてはいけない。私は『十八史略』を第三巻まで読んだよ」と語った。

 「(戸田)先生は、衰弱しきったお体だった。それでも寸暇を惜しんで読書をし、思索されていたのです」(同)

 また戸田は「これからの学会は、外部から崩されることはないよ。大事なのは内部だよ。団結だよ」とも言い残した。