「険しき山」を越えて ④
戸田から指導を受けた数日後、柴田の自宅に封書が届いた。差出人の名前は「池田大作」だった。「会長先生が御多忙であります故・・・・・」と書き始められた手紙は、便箋六枚にわたる長文であった。
「肺病ハ 絶対に 必ず、信心に依って治ります。会長先生もお若い時に(肺病)三期であったそうです。私も肺病でした。また何千、何萬の同志が、大御本尊様の大偉力によって良くなって居ります。此等の事実こそ科学です。而し、信心弱くして疑ってはなりません・・・・・・」
池田は「医学を否定してはいけない」と念を押しながら、烈々たる確信をもって、血を吐き苦しんでいた柴田を励ました。
──朝晩の勤行で「一日も早く肺病を治し給え、広宣流布に活躍できる立派な青年にしてください」と、胸奥より祈ってごらんなさい。必ず必ず必ず、全快する事は疑いありません──
──栄養を取ること、寝ること、疲れる際は、身体を休めるように気をつけなさい・・・・・どうか御両親も兄弟の方も驚くほど良くなって、元気で一日も早くお会いできることを願って、祈ってやみません──
「一介の男子部員である私を、ここまで励ましてくれるのか、と本当に勇気づけられました。昭和四十四年、旧・奈良本部(現・明日香文化会館)で池田先生に直接、回復したことをお伝えできました」。
こうした戸田による直接、間接の指導によって自らを励まし、人生を再起した人々が、全国から青山葬儀所に集まった。大阪の関西本部でも焼香が行われたが、集まった人々が入りきらず、鶴橋駅に近い下味原交差点まで参列者の列が続いた。