疲労困憊の関西の夜 ③
弟と話し合い、これまでの店を畳み、決意を固めて転職した。しかし「自分の甘さをいやというほど思い知った」という。「製品を作るだけのはずが、販売から集金まで引っ張り回され、休みはなく、工場に泊まり込み、給料は遅配です。先生のあの厳しい指導がなかったら、『この苦境を乗り越えてみせる』などとは到底思えませんでした」。辻が転職した工場は、三年後にようやく安定した。
「今から思えば、初公判の翌日だったのに、そんな素振りは微塵を見せられなかった。しかもたくさんの会合の合間に、時間をこじ開けてくださったんです。何年も経ってから、『怒涛の逆巻く荒海に身を置いて』という言葉は、当時の先生の境遇そのものだったんだと気づきました」
初公判の後、池田が東京に戻ったのは十月二十一日だった。
「朝、七時三十分──東京着。結局、夜行列車は疲れる。妻も、疲れきったことであろう」。その足で戸田の自宅に向かった。「朝の先生による勉強──『日本歴史』に入る。藤原時代より。先鋭に、種々報告」。
翌二十二日。「先生より、たびたび『読書』せよと注意あり。『あの本も読め、この本も読んだか』と」。
「朝、先生より、厳しく叱らる」(十月二十五日)──法廷闘争が始まった後も、池田に対する戸田の個人教授は続いた。
この年の瀬、創価学会は七五万世帯に達した。戸田は、会長就任時の誓いをついに果たしたのである。