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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「父母も 君の命に」 ①


 「八月十三日の部員会」に参加した人々は、池田の約束どおり、「私が行った以上の思い出」を持ってそれぞれの家に帰った。その後も、彼らに対する池田の励ましは絶えない。

 都立小山台高校の定時制に通っていた高橋右内(千葉・流山市、副本部長)。高校三年の時、長年病に伏せっていた父が亡くなった。高橋自身も大学受験を控えた冬、突然、猛烈な腹の痛みに襲われた。

「急性の腹膜炎でした。大きな病院に移って手術した後、医師から『あと一時間遅れていたら命はなかった』と言われるほど重篤でした」。術後も耐えられないほどの痛みが続いた。友人がお見舞いに来てくれてもろくに返事もできない。勤め先のカメラ工場はクビになるのか。進学はもう無理か。心が揺れた。


 その「つらくてつらくてどうしようもなかった」という日々を支えてくれたのは、一枚の原稿用紙だった。病状を聞いた池田から、お見舞いとして届いたのである。ベッドの上でその原稿を読み、高橋は泣いた。そこには、


  希望に燃えて

  怒涛に向い

  たとい貧しき身なりとも

  人が笑おが あざけよが

  じっとこらえて 今に見よ


 と書かれていた。かつて青春時代の池田自身が書き留めた詩である。

 高橋は半年後に退院した。

「一度は大学をあきらめましたが、男子部の先輩にも励まされ、二十一歳で立正大学の二部に入りました」。さらに大学院で修士号をとった後、中学の英語教師になった。

「あの病室でいただいた原稿用紙が、すべての出発点でした」と語る。


  「第一希有」の人に ③


 埼玉の今野数子(春日部市、圏副婦人部長)は「当時、四畳半に五人で暮らしていました」と語る。火災保険の会社に勤め、夜は上野、忍岡高校に通っていた。

 母である千鶴子の実家は、北区の王子で町工場を経営していた。

「工場の従業員だった父は、母と結婚してから働かなくなってしまい、一家は苦労しました」と語る。

 日銭を稼ぐために働きに出ていた千鶴子が、脳内出血で倒れた。九時間の大手術を終え、入院生活を続けた。

「親戚からは『学会に入ったから病気になった』と責められました。母は決して信心をやめませんでした。見舞いに来てくれた人にも、どんどん仏法を語りました」弘教の数は一家で100世帯を超える。


 二人の兄はすでに家を出ており、十五歳の数子も働くことになった。毎朝、東十条の駅から東京駅まで、重いカバンを抱えて半時間、すし詰め電車に揺られた。始業時間の30分前に出社し、40人ほどの社員の机を拭き、お茶を入れた。高校の授業は夜九時に終わり、自宅に戻るのは十時を過ぎた。

 「あの北区公会堂の部員会で色紙をいただいてからしばらく経って、荒川の会館で高等部の会合をしていた時です(1967年一月十一月二十六日)。十数人が集まっている部屋に突然、池田先生が立ち寄られたんです」

 驚く高校生たちに池田はお菓子を渡し、「みんなで食べなさい」と勧めた。とっさに今野は「まず御本尊様にお供えしましょう」と言った。池田は「君は利口だね」「名前はなんていうの?」「学校はどこ?」と、定時制に通う今野の状況を尋ねた。そして「御本尊は、根本尊敬(こんぽんそんぎょう)(=根本として尊敬する対象)という意味なんだよ」とその意義を教えた。

「一瞬の出会いでしたが、一生忘れられません。実の父親以上に、なんと温かい人なんだろうと感じた」と今野は振り返る。

   「第一希有」の人に ②


 半世紀近く経った今も参加者の多くが、この色紙を大切に持っている。

 子鶴広子(総神奈川副婦人部長)は横浜商業高校の定時制に通いながら、スピーカーを作る工場で働いていた。

「あの色紙は封筒に入っていたんですが、いただいたことがあんまりうれしかったので、帰りに駅前で新聞紙を買って、さらに大切に包んでかえりました」と振り返る。

 子鶴の一家が学会と巡りあったのは1955年(昭和30年)の春。札幌に住んでいた時である。

 母のユリ子は重度の神経症と不眠に悩まされてきた。幾つも病院を回ったが、治らなかった。四人の子を残して死ねない。せめて長女が中学を卒業するまでは生きていたい。これが入会当初の望みだった。


 その年の夏、戸田城聖が札幌を訪問した。ユリ子は歩くこともままならず、小学生の長女に支えられ、戸田が滞在する宿舎に向かった。

「宿舎は人が多く、戸田先生に会う前に待合室のような部屋に通されたのですが、そこにおられたのが池田先生でした」。

 ユリ子は学会に入って数ヶ月、「信心すれば眠れるようになる」と言われてきた。言う側は励ましのつもりだが、言われた本人は実際には病状が良くならず、自分の信心が弱いからだろうか、と苦しんでいた。

 「池田先生は母の病状を、じつに丁寧に聞いてくださった。『それは大変な病気だね』と声をかけられ、抱きかかえるように励まされ、母は『胸の奥がすーっとした。この人はわかってくれた』と感じたそうです。家に戻ってきた母は安心できたからなのか、その夜から眠れるようになったんです」

 「体の弱かった母が、座談会からかえってくるとうれしそうな顔になっている。元気になっていく。私はその姿から信心を教わりました。母は九十一歳の今も元気です」


 父の久蔵は、伯父の経営する炭鉱で働いていた。単身赴任で北海道内を転々としていたが、石炭産業の斜陽化とともに閉山が続き、職を失った。不況のため道内での働き口がなく、知人の紹介で単身、神奈川へ。やがて家族を呼び寄せた。離ればなれで生活してきた家族がやっと一緒に暮らせるようになった。

 神奈川の自宅に飾られた一枚の色紙は、一家の信心の支えとなった。

 子鶴広子はその後、池田の励ましを胸に、神奈川大学の二部に進学した。

   「第一稀有」の人に ①


 池田が色紙を二色刷りにした理由がある。色紙の右上には、

 「第一希有(けう)」

 という朱色の引首(いんしゅ)印(書き始めの印)が押されていた。この四文字は、学会員が朝晩読誦している勤行の中にある(法華経方便品)。

 

 釈尊が語る。──舎利弗よ、これ以上説くことはやめよう。仏が成就したものは、最もまれであり(=第一希有),理解しがたい仏法だからだ──。

 「成仏がいかに難しいか」を説くくだりである。この直後、法華経の根本思想である。「諸法実相」が明かされる。

 そして弟子たちは、仏道修行の目的が、ほかならぬ「自分自身の仏界(=仏の生命)を開く」ことだ、と覚(さと)っていくのである。池田が押した「第一希有」の印は、この「姉弟のドラマ」を象徴する一言だった。

 

  「私と歩みを共にしゆく友に」 ③


 漆塗りは数十の工程を重ねる。木地固め、布着せ、下地塗り、中塗り、上塗り、仕上げなどの作業に一ヶ月以上かかる。父の儀一と一対一の厳しい修業が続いた。「お前は辞めたほうがいい」と見限られたこともある。

 二十一歳の時、自分一人で仕上げたケヤキの板を、再び大病を患い入院していた父のもとに届けた。儀一は病床で「いいよ、これで」と言い、初めて息子の仕事を認めた。二年後、静かに息を引き取った。


 信太郎はこれまで目黒雅叙園や長野の善光寺、参議院議長公邸などの漆工建築の施工・修復に取り組んできた。

 それらの業績が高く評価され、2010年(平成二十二年)、塗師(ぬし)として「東京マイスター」に認定されている。学会では墨田区男子部長などを歴任してきた。

 職場には毎年、中学生たちが体験学習に訪れる。必ず話すことがあるという。「父が倒れて定時制に通ったことと、結核で休学したことです」。

 そして、あの色紙を支えにして生き抜いた青春時代を振り返り「たとえ来年、高校入試でうまくいかなくても、その時いる場所で明るく生きていけば、必ず道は開ける」と中学生に語りかける。

「生徒たちから『体験学習に参加して、明るく生きようとあらためて思いました』と書かれた手紙の束が届くんですよ。うれしいもんです」と笑った。