「第一希有」の人に ②
半世紀近く経った今も参加者の多くが、この色紙を大切に持っている。
子鶴広子(総神奈川副婦人部長)は横浜商業高校の定時制に通いながら、スピーカーを作る工場で働いていた。
「あの色紙は封筒に入っていたんですが、いただいたことがあんまりうれしかったので、帰りに駅前で新聞紙を買って、さらに大切に包んでかえりました」と振り返る。
子鶴の一家が学会と巡りあったのは1955年(昭和30年)の春。札幌に住んでいた時である。
母のユリ子は重度の神経症と不眠に悩まされてきた。幾つも病院を回ったが、治らなかった。四人の子を残して死ねない。せめて長女が中学を卒業するまでは生きていたい。これが入会当初の望みだった。
その年の夏、戸田城聖が札幌を訪問した。ユリ子は歩くこともままならず、小学生の長女に支えられ、戸田が滞在する宿舎に向かった。
「宿舎は人が多く、戸田先生に会う前に待合室のような部屋に通されたのですが、そこにおられたのが池田先生でした」。
ユリ子は学会に入って数ヶ月、「信心すれば眠れるようになる」と言われてきた。言う側は励ましのつもりだが、言われた本人は実際には病状が良くならず、自分の信心が弱いからだろうか、と苦しんでいた。
「池田先生は母の病状を、じつに丁寧に聞いてくださった。『それは大変な病気だね』と声をかけられ、抱きかかえるように励まされ、母は『胸の奥がすーっとした。この人はわかってくれた』と感じたそうです。家に戻ってきた母は安心できたからなのか、その夜から眠れるようになったんです」
「体の弱かった母が、座談会からかえってくるとうれしそうな顔になっている。元気になっていく。私はその姿から信心を教わりました。母は九十一歳の今も元気です」
父の久蔵は、伯父の経営する炭鉱で働いていた。単身赴任で北海道内を転々としていたが、石炭産業の斜陽化とともに閉山が続き、職を失った。不況のため道内での働き口がなく、知人の紹介で単身、神奈川へ。やがて家族を呼び寄せた。離ればなれで生活してきた家族がやっと一緒に暮らせるようになった。
神奈川の自宅に飾られた一枚の色紙は、一家の信心の支えとなった。
子鶴広子はその後、池田の励ましを胸に、神奈川大学の二部に進学した。