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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「私と歩みを共にしゆく友に」 ②


 深川支部の地区部長として活躍していた儀一が肺結核で倒れたのは、信太郎が高校一年の時だった。

 収入が途絶え、一家を支えるために父の跡を継ごうと決め、通っていた高校を中退。御茶ノ水にあった中央大学高校の定時制に再入学した。昼は漆塗りの修業、夜は作業着のまま登校する同級生や二十代半ばのクラスメイトたちと机を並べた。

 

 しかし入学後の健康診断で信太郎自身にも結核が見つかり、三カ月間、休学せざるをえなくなる。

 一家の生活費。治療費。見えない将来。自分だけがなぜこんなに不運なのかと嘆いた。

「暗い気持でした。復学しても結核の引け目を感じ、人と接するのがつらく、毎晩『明日、退学しよう』と思いながら通っていました」。

 

 絶望感に包まれた日々を過ごしていた時、高等部の先輩から「夏休みに定時制の集まりがあるぞ」と誘われたのである。

 池田はその部員会を前にして、一枚の色紙に『若き日の日記』の一節を毛筆で書き写した。そして参加者の人数分、二色刷りの複製を用意した。さまざまな事情で定時制に通う「無数の山本伸一」たちに贈るためである。池田はその色紙に、


  未来生涯


  いかなる苦難が打ち續(つづ)くとも


  此乃師(このし)に学んだ栄誉を


  私は


  最高最大の幸福とする


       若き日の日記より


 と綴った。──「ドッジ・ライン」(インフレを抑えるための緊縮財政政策)のあおりを受け、戸田城聖の事業は風前の灯となった。その経営難を切り抜けるために、池田が最も心労を重ねた時期の言葉である(二十三歳=1951年)。


 さらにその脇には、


  私と歩みを


  共にしゆく友に


 と書き加えられていた。

 二色刷りの手間をかけ、北区公会堂を満員にした夜学生たちに色紙を手渡す──それまで大勢の人々を励ましてきた創価学会の会合でも類を見ないほどの、大規模な激励だった。

 色紙を手にした安宅信太郎は、それまでとまったく別の風景が目の前に広がったという。

「人生観がガラッと変わる衝撃でした。『池田先生も定時制に通われたじゃないか。しかも結核と闘っておられたじゃないか』と。メッセージにあった『十年先をじっとこらえ今にみろ』という一言も、心につき刺さりました。あの日から気持ちが軽くなって、自分から友達に声をかけられるようになったんです」。

  「私と歩みを共にしゆく友に」 ①


 安宅信太郎(東京・墨田区、副区長)は漆塗り職人の二代目である。彼もまた、「八月十三日の部員会」に参加した一人だった。

 「あの会合では先生からメッセージだけでなく、参加者全員に一枚の色紙をいただきました」と語る。

 父の儀一は1912年(大正元年)生まれ。向島で住み込み職人を抱える漆塗りの親方だった。信太郎は三人の姉に続いて長男として生まれた。


 「家族に信心を教えてくれたのは、末っ子の弟でした」という。弟の義雄は生まれて間もなく、重度の脳性小児まひになった。

 「弟が四歳の頃、父は浅草の闇市で知り合った露天商のおじさんから、学会の話を聞きました」。母のトクも職人たちの面倒を見ながら、幼い義雄をおぶって弘教に歩いた。「その子が治ったら信心してやるよ」と心ない言葉も浴びせられた。信太郎は母に連れられていった三ツ沢の競技場で、戸田城聖の姿を見たことを覚えている。

 「弟の義雄は生後五か月ほどの知能でしたが、やがて自分で歩けるようになり、十歳で亡くなる一年ほど前からは、家族の題目の声に合わせて口を動かすようにもなりました」


 父の儀一は池田の指揮の下、山口開拓指導にも参加した。信太郎たちに「義雄を恨んだらだめだよ。この子がわが家に信心を教えてくれたんだ」と語った。

  「私が会合に行った以上の思い出を」 ③


 都立本所高校の定時制に通っていた島田かおる(東京・墨田区、支部副婦人部長)は「『池田先生も夜学生だったんだ』と驚きました。それまで知らなかったんです」と振り返る。

 島田は石けん工場の箱詰めや金属の印刷会社、不動産の事務仕事などを続けながら高校に通った。朝はきょうだい五人のごはんを用意し、仕事と学校を終えて帰宅するのは午後十時を過ぎた。


 父の正次は、浅草で人気のそば屋を営んでいた。1959年(昭和三十四年)に入会し、しばらくして母のみねたち家族も続いたが、それほど熱心ではなかった。知り合いの連帯保証人になった正次はある日、そば屋の店舗を差し押さえられてしまう。

「私が小学六年生の時です。友達に伝える余裕もなく、墨田の押上に引っ越して、四畳半と三畳の二間に家族九人で暮らしました」。

 正次は友人の食堂を手伝ったが家計は厳しく、自宅のガスや水道まで止められた時もあった。

「子どもの私たちが近くのパン屋さんにパンの耳をもらいに行くのですが、毎日のように行くのでそのうちにもらえなくなりました。生活保護も受けました。両親が信心で立ち上がったのはこの頃です」。島田は笑みを浮かべて語る。

 「あんな貧しい時でも、父と母は自転車に乗って、一緒に浅草まで学会活動に通っていました。両親そろって意気揚々と出かけるうしろ姿は、今でもまぶたから離れません」


 正次とみねが、学会本部で行われた記念撮影会に参加した時のことである。

「家に戻った両親は、堰を切ったように、初めて会った池田先生の印象を『若いのにみんなに気をつかって、まるで一人ひとりに声をかけるように語りかけてくれた。本当にすごい人だ』と話していました」。

 のちに島田自身、定時制高校の代表として池田を囲む懇談会に出席した。

「海のものとも山のものともわからない貧乏な高校生に、なぜここまで心を砕かれるのか、と感動しました。両親の言っていた意味がわかったような気がしました」。

  「私が会合に行った以上の思い出を」 ②


 「わけもわからず涙が出て、仕方ありませんでした」。十五歳の本田晴男(東京・小平市、副総区長)は、都立足立高校の定時制に通い、町工場で働いていた。

 「母のタミは近所に住んでいた在日韓国人の白川さんから仏法の話を聞き、一人で信心を始めました」。タミの男兄弟四人は全員、若くして亡くなっていた。入会したのは1959年(昭和34年)の暮れである。

 その半年後、塗装職人だった父の秀男が病で他界した。つましい収入が断たれ、八歳の晴男を筆頭に三人の子を抱えるタミは、親戚から「お前が創価学会に入ったから秀男は死んだのだ」となじられた。さらに「学会をやめたら三人の幼い子どもの面倒はみてやる」と迫られた。

 本田は「母はきっぱりと『信心はやめません。子どもは私が立派に育ててみせます』と言い切りました。火葬場で、人目を避けて泣いていた姿が忘れられません」と語る。

 タミはゴム会社のバッテリー部品を作る工員として働いた。子ども三人を連れて地方の弘教にも行った。冬の夜、品川駅で寒風に吹かれながら、タミは「晴ちゃん、かわいそうな人にこの信心を教えてあげよう」と言い聞かせた。

「母にとって創価学会しか希望はなかった。その気持ちが私にも初めてわかったのが、あの定時制の会合だったのだと思います。『この池田先生という人は、俺たちのことを知ってくれている』と強烈に感じました」。

 集まった夜学生たちは、一人ひとりがそれぞれに異なる事情を抱えていた。

「君たちこそ先駆者である」と訴える池田のメッセージは、彼らにとって目からうろこの落ちるような、初めて耳にする話ばかりだった。