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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「私が会合に行った以上の思い出を」 ①


 厨房から駆け戻り、スイカを切る包丁を池田に渡した時、田代孝は思いきって声をあげた。

「今度、定時制高等部の会合があります。ぜひ出席してください」。

 池田はその場でスケジュールを確かめた。

「あー、八月十三日か・・・・・」。その日は会長就任後、初めて福井を訪問することになっていた。前日は兵庫、翌日は富山。さらに岐阜、北海道と地方指導が切れ目なく続く。

 残念ながら出席できない。しかし──池田は「私が会合に行った以上の思い出をつくってあげよう」と十八歳の田代に約束した。


 二週間後の八月十三日。第五回を数える高等部の定時制部員会が、都内の北区公会堂で開かれた。首都圏を中心に集まったメンバーで午後六時には満員になり、六時半に開会した。

 「求道心に燃えて、社会の荒波と戦いつつ、勉学に励む諸君こそ、学会の宝であり・・・・・」。池田からのメッセージを代読する、高等部長の上田の声が公会堂に響いた。

 「諸君は真実の人間形成が、決して安逸の中になされるものではないということを、十分御承知のことと思う」「リンカーンが貧乏に耐え、独学で弁護士となり、ついにアメリカの大統領になったことは、あまりにも有名であります」


 メッセージは長文だった。池田はフランクリンや福沢諭吉など、貧しいなかで向学心を失わずに大成した人々の例をあげていった。さらに、創価学会の歴史そのものが「働き学ぶ」人々によって築かれてきた事実を、かんで含めるように伝えた。

 「初代牧口会長は、一日の半分は働き、半分は、学校で勉強するという半日学校制度を提唱されましたが、諸君は、現実に身をもってこれを世に実証する先駆者であると自覚していただきたい。

 戸田前会長が、苦学力行、働きながら小学校の正教員の資格をかちとったのは、わずか十九歳であった。私も十九歳で入信し、諸君と同じく自力で夜学へ通った時代もあった」

 「したがって、境遇を同じくする諸君の努力が、日常の気持ちは、私がもっともよくわかり、諸君が一番可愛くてなりません」

  初めて書いた手紙 ②


 「貧乏のどん底だった」という中学時代、孝は男子部の先輩と将来の夢を語り合った。どうしても高校に行きたいと思ったが、なかなか両親には言えなかった。やっとの思いで「進学してもいいか」と切り出した。父の文雄は孝の顔を見つめ、黙ったままうつむいた。

「やっぱり無理だなと思い、相談したことを後悔しました父が大阪へ出稼ぎに行ったのは、それから間もなくのことでした」。


 数か月の出稼ぎから帰ってきた文雄は、明るい表情で「高校に行きたけりゃ、行くがいいさ」と孝に言ってくれた。そのための出稼ぎだった。

 しかし、わずか二か月後に迫っていた受験には失敗。横浜市内の鉄工所で働きながら受験勉強を続ける道を選んだ。

 一万3000円の月給のうち、5000円は実家に仕送りし、5000円は学校用の貯金に充てた。火の気一つないへやで毛布にくるまり、ミカン箱を机がわりにした。

「近所の青年部の方々が、中学時代に使っていた教科書を貸してくれました。


 合格の朗報を、筑豊で待つ両親に知らせた。しばらくして返事が来た。

「・・・・・(定時制に通う)四年間は、どんなに苦しくてもがんばるんだ・・・・・」。それは、文字というものをほとんど書いたことのなかった父の文雄が生まれて初めて自分の手で書いた、たどたどしい手紙だった。

   初めて書いた手紙 ①


 「スイカを切ってあげよう」。開襟シャツ姿の池田が言った時、周りの人々は包丁がないことに気づいた。1967年(昭和四十二年)七月。静岡の大石寺で行われた夏季講習会の一コマである。

 全国から高校生、中学生、小学生の代表7000人が集っていた。ソフトボール大会が終わった後、選手選手たちに食べさせようと池田はたくさんのスイカを用意した。当初は屋内に戻ってからふるまう予定だったが、太陽の下でいっしょに食べようと池田が提案したのである。


 「ぼくがとってきます!」と声をあげて駆けだしたのは、横須賀の追浜高校定時制に通う田代孝(横浜市、副総県長)だった。

 炭鉱の町、福岡の筑豊で生まれ育った田代も、高校への進学を切望した一人だった。

 父の文雄が働いていた炭鉱関連の会社は、孝が小学一年生の時に倒産してしまった。

「父はわずかな退職金をたよりに商売を始め、山口県や福岡の街を転々としました。結局すべてうまくいかず、福岡のボタ山が見える街に戻ってきました」。病弱な母の静枝も日雇いで働きに出た。一家で学会に入ったのは1956年(昭和三十一年)の冬だった。

  五人に一人が定時制 ②


 敗戦から八年経った頃の雑誌「中央公論」には、都内のある高校教師の談話が載っている。

 「学校へくるための本質的な理由がどうあるにしても、勉強をしようという心がまえの真剣さにおいては、定時制高校生のほうが全日制高校生よりもまさっている・・・・・昼の高校生ならば、休講になると喜ぶところだが『定時制の子』たちの場合は反対で、時間があくことを喜ばない」(1953年6月号)


 池田が高等部をつくった時点でも、全国の高校生一割以上が定時制に通っていた。当時の朝日新聞には、「学校があるから勉強する」という全日制の生徒の行き方よりも、「勉強したいために学校へ行く」という定時制の姿勢に惹かれ、定時制学び続けた女子高生の話が紹介されている。(1965年十月十七日付け)。


 1968年(昭和43年)に創価学園を、71年(昭和46年)に創価大学を創立していく池田の教育思想は、池田自身の苦学の体験と時代背景を抜きに考えることはできない。そして定時制や夜学で学ぶ青年たちが、池田とともに生き、紡ぎあげていったドラマには、創価教育の根幹をなす「学ぶ喜び」「学ぶ尊さ」が詰っている。

 「『定時制は大事だよ』と、何度も何度も言われました。初代高等部長を務めた上田雅一が語る。

「高等部が誕生したばかりの昭和40年代初頭、先生は一人ひとりを具体的に励ますいっぽう、定時制メンバー全体への指針を示すために、彼ら自身が声を出してぶつかってくるのを待っておられたような気がします」

 定時制メンバーに対する池田の本格的な励ましは「一人」の声に応ずるところから始まった。

  五人に一人が定時制 ①


 高等部が結成された後、学会の組織には全国の津々浦々まで「働きながらでも学ぼう」という気風が広がっていった。

 昼の高校に通いたくても、家庭の事情で断念し、就職するメンバーが多かった。そんななか、働きながら学ぶ道を選んだ定時制高校生たちに、池田はひときわ強く光を当てた。

 定時制高校の生徒は、かなりの割合で中退せざるをえなくなる。昼間の勤労。疲れた体を押しての勉強。そのつらさと喜びは、池田自身が夜学に通った時代、骨身に染みて感じたことである。

 池田が西新橋の昭文堂印刷や蒲田工業会で働きながら、東洋商業、大世学院で学んだ昭和20年代、日本のじつに20パーセント強──五人に一人が定時制に通っていた。

 「(戦争から)兄たちが復員してくるまでは、いやでも働かざるをえなかったので、とうてい昼間の学級には入れなかった。──夜学でもいい、いや、むしろ働きながら学ぶところにこそ生きた学問はあると、ひそかに考えていた」(『池田大作全集』第二十三巻)