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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「世界は諸君を待つ」 ⑤


 かつて池田が綴ったノートに「伸一に與(あた)ふる」と題した詩がある。池田の筆名である山本伸一の名に託して”苦学する新聞少年”を励ます詩である。

 学会の中心者である池田の周囲には、かつての自分のように、働き学びながら必死で人生を切り開こうとする「無数の山本伸一」がいた。


 人に知られず 朝がすみ

 新聞かかえ 微笑みて

 遊びし 氣持(きもち) 小さな胸に

 幼き君よ なに求めゆく

 悲しみ 忘れ 進みゆけ

 きっと開ける 朝日が昇る


 學(まな)びし心 ままならず

 友等は 栄えある學制服に

 君は 貧しき配達人

 曾(あ)えば それゆく 苦しい眼(まなこ)

 涙にむせぶ 世のめぐり

 これぞ 運命(いのち)ぞ 伸一強く


 じっと こらえて 希望を高く

 そこだ伸一 男じゃないか

 眞一文字の その意氣だ

 恐れず 惑わず あたりゆけ

 君のすべてを 吾れは知る也(なり)

 くばり 終えてか 心の君へ


 「恐れず 惑わず」進む苦学の日々を、創価学会の初代会長・牧口常三郎も、二代会長・戸田城聖も経験していた。

 今号から、現在の創価学会の土台を作り上げた、「働き学ぶ」人々のドラマを追いかけたい。




   「世界は諸君を待つ」 ④


 「中野区の住み込み寮は、ベニヤ板とカーテンで仕切られ、一人分が一畳ちょっとの狭い部屋でした。二段ベットで正座すると頭が天井につくんです」。深夜、囁(ささや)くように題目をあげた。午前四時に起き、口にするのは新聞専売所で食べる朝食と夕食のみ。昼食は抜いた。授業の後、同級生から駅前の喫茶店に誘われても「夕刊があるから」と断った。コーヒー代の100円が惜しかった。母から届く手紙には、いつも決まって「おまえもがんばれ。母ちゃんも題目送ってるから」と書かれていた。かなの多い手紙だった。


 一年が経ち、8人いた同僚は4人に減った。大学二年から仕事を牛乳配達に変え、部屋も三畳一間に。朝三時に起きて、牛乳を400本配り終えるのに7時までかかった。

 「日大紛争」が起き、バリケードが組まれ、大学の授業がなくなった。儀雄が初めて池田の姿を目にしたのはこの年の秋だった。

「あの『日中国交正常化提言』を発表された、日大講堂の学生部総会です」。

 翌年、池田を囲む青年部の記念撮影に参加した時は「20年間、信仰をやり抜きなさい」という池田の短い一言が胸に焼きついた。「西も東もわからない東京を、先輩と一緒に学会活動で走り回りました」。


 念願の高校教師になったのは1972年(昭和47年)である。以来40年間勤めあげ、この四月、定年退職を迎えた。

 「あの聖教新聞記事で私の人生は変わりました。私も生徒たちに『青年は大事だ。学問は大事だ。今は大木をつくるために根を張る時だ』と語ってきました。教え子の何人かから『私も学校の先生になりました』という便りをもらい、本当にうれしかった。彼らの姿から、教育という仕事は重要だと強く感じます」

 

   「世界は諸君を待つ」 ③


 佐藤の母、カツ江が学会に入ったのは1960年(昭和35年)である。

「父の武雄は大工で、すぐに手をあげるような昔ながらの職人でした」。カツ江にとって、武雄の酒癖の悪さが一番の悩みだった。佐藤は「五人きょうだいの末っ子で、まだ小学生私は、母を応援するような気持ちでした」と振り返る。


 湯沢は豪雪地帯として知られる。

「雪が降ると車道でも軽く50センチは積もります。マントをすっぽり被り、座談会場まで歩いて小一時間の道のりを母についていくのが楽しみでした」。信仰に大反対の武雄は「そんなに学会がいいなら家から出て行け」と怒鳴り、カツ江と儀雄を家から締め出すこともあった。

 「『しんぼうするんだよ。必ずとうちゃんもわかってくれる時がくるから』と話す、雪明りに照らされた母の横顔は忘れられません」。


 雪国の座談会で語り合われる体験談や、強くなっていく母の姿を通して、信仰のもつ力を、そして池田の存在を知っていった」。

 雑誌の「蛍雪時代」で、都内に住み込みの新聞配達の求人を見つけた。これだと思った。

「学費は全部、自分で稼ぐから」と両親を説得した。信心反対だった父の武雄は、儀雄が上京する時、大工の腕を振るい、御本尊を安置する小さな御厨子(おずし)を作ってくれた。その武雄もやがて信心を始め、酒癖の悪さも治っていく。イガクリ頭の儀雄は学生服の内ポケットに御本尊を包み、上野駅に降り立った。日本大学に合格し、苦学の日々が始まった。

  「世界は諸君を待つ」 ②


 池田の話はこう続いていた。

「なかなかお目にかかれないので、もう一つ申し上げます。それは、いまの百数十万人の男子青年部をつくりあげたのは、私を中心とした数名の同志であります。

 こんどは、第一期の高等部の諸君が、未来の学会の基礎も、後輩のいっさいの繁栄、大発展の基礎も、ぜんぶわれわれが築いてみせるという心意気で、前進していっていただきたい。このことを重ねて申し上げて、私の激励といたします」


 創価学会に高校生のグループである「高等部」が誕生したのは1964年(昭和39年)。「東京オリンピック」の年である。佐藤儀雄が「自分の力で大学へ」という池田の話を読んで心を揺さぶられたのは、それから二年後のことだった。

 この会合で池田は、高校生世代への並々ならぬ期待を語っている。

 「私は、諸君にバトンタッチをしたいのです。諸君のために道を開いて、あとは死んでいきたいのです。それまでは、どんな批判も、どんな苦労も、ものの数ではありません。

 どうか、その私の期待を、このなかの何人かでもいいから、妙法に照らされて、しっかり受け継いで前進していっていただきたいと思います。私は諸君を信頼しております」

 佐藤はこの日まで、池田とは会う機会などなかった。しかし、紙面を介した池田の言葉が、その後の佐藤の人生を決めた。

  「世界は諸君を待つ」 ①


 1966年(昭和41年)の三月。高校二年生だった佐藤は、秋田県の湯沢市の自宅で聖教新聞を読んでいた。高校生、中学生、小学生の代表が集まり、大きな会合が開かれたらしい。彼らに向かって、会長である池田大作tの語った内容が記事になっていた。

 「世界は諸君を待つ」という大きな見出し。そして「自分で働いてでも大学へ」という見出し。その後に続く文章に、目が釘付けになった。

 「できるだけ大学へは行きなさい。家庭の経済が許さないときには、自分で働いて夜学へ行きなさい。通信教育でもいいのです。自分の力で大学は出なさい」

 「からだの悪い人、そしてまた家庭の事情でいけない人は、高校だけを卒業して、あとは自分の信心、教学、努力で、大学を卒業した以上の力を示す決心でいけば、それでけっこうである思います」


 佐藤は「あの記事の一行一行が、とにかく強烈に心に響いた」と振り返る。この時すでに、高校を卒業したら埼玉のネジ工場に就職する予定になっていた。

「我が家は極端に貧しくはありませんでしたが、大学に行くお金などもちろんなかったし、そもそも『大学に行く』という発想そのものがなかったんです」。