EIKOの気まぐれ闘病日記 -86ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。


「社会の荒波と戦い、勉学に励む諸君こそ宝。


その努力や気持ちは、私が最もよくわかる」


──1967年(昭和四十二年)八月、


定時制に通う高校生たちの集いに


池田は長文のメッセージを送った。


自らも戦後の混乱期に働き学んだ池田。


その慈愛こもる励ましに立ち上がり、


「夜学」の誇りを胸に青春を生き抜いた


幾多の人々のドラマを追う。


 「あの記事を読んで、一気に視界が開けたんです」

 佐藤儀雄(神奈川・藤沢市、副圏長)は四○年間、私立高校で英語教師として働いてきた。自分の進路が一変した日のことをはっきりと覚えている。

 きっかけは、今から半世紀近く前の”出会い”だった。



 読者の皆さん、いつもペタ、コメントありがとうござい


ます。<m(__)m>


 今日で、民衆こそ王者ー池田大作とその時代シリー


ズ 青年の譜(11)、「大阪事件」(5)の連載が終了し


ました。


 最後まで読んでいただきありがとうございました。


<m(__)m>


 次回からは、民衆こそ王者シリーズから、「友よ強く」


──働き学ぶ誇りを連載しますので、お楽しみに!


   検事への伝言 ⑤


 大阪高裁の郵便局に勤めていた山下通夫(大阪・守口市、副圏長)。

「昭和四十五年ごろ、職場の建物を見上げる数人の人影に気づきました」と語る。それは、池田が獄中闘争を貫いた建物を見学しに来た、アメリカの婦人部員たちだった。

「ほんまに驚いた。あの時『ああ、大阪事件の歴史は、関西や日本だけのものとちゃう(=違う)んやなあ』と痛感したんです」。

 

 大阪地検や裁判所の入った建物が取り壊される時、山下は大阪事件にゆかりのある物品を払い下げてもらうよう、裁判所と粘り強く交渉し、許可を得た。

「たしかすべて一個五〇円だったと思います。全部捨てられる運命やった。トラックを借りて、たくさんの学会員がその前に立って涙した壁の赤レンガや、法廷の椅子、池田先生が立った証言台、座られた椅子、『傍聴満員』の札、とにかくたくさん運びました。


 拘置所の鉄の扉の一部や赤レンガが、東京の池田のもとに届けられた。

 「先生は『嫌なものを持ってきたなあ』と笑いながら、こう伝言されました。『牧口先生、戸田先生の獄中の様子がわかるものは、ほとんど残っていない。しかし関西は、私の歴史を残してくれた。ありがとう』と」

 この品々をもとに、かつて関西記念館(旧・関西本部)で大阪事件をめぐる展示が常設されていた。

「来日したSGIの方々も熱心にご覧になった。いろんな国からぎょうさん来はった」。

 「この鉄の閂(かんぬき)を押し開けて、池田先生は出獄されたのか」「私たちは先生と握手したことはないけど、この扉にふれたから同じことだね」。そう言い合って見学する異国の同志たちに、山下をはじめ大阪事件を知る歴戦の人々は、ときに涙をこらえ、通訳を介して語り続けた。

   検事への伝言 ④


 この日、池田は裁判の関係者を前に、御書の一節を引いた。

「設(たと)い身は此の難に値(あ)うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交(まじ)わるとも後生は必ず仏国に居(こ)せん」(「曾谷二郎入道殿御返事」)──今世では戦のやまない修羅の道に生きたとしても、後の世では必ず仏の国土に住むことができるだろう──。

「この一節を通して先生は『たとえ難に遭っても、修羅の道を行くことになっても、広宣流布に立ち上がれば仏です』と言われました」(栗原明子、関西婦人部総主事)。


 無罪判決の四日後、池田はイランへ向かった。イラク、トルコ、パキスタン、など七カ国を訪問し、香港とタイのバンコクで支部を結成。四カ国に連絡責任者を設けた。大阪地裁が控訴を断念したという知らせは、エジプトのカイロで聞いた。

   検事への伝言 ③

 

 池田の無罪判決が出たのは、それからひと月余り経った一九六二年(昭和三七年)一月二十五日である。後年、池田は『私の履歴書』で次のように綴った。

「(無罪の)判決主文を耳にして、私は当然のことと思ったが、みずからに言い聞かせた。私だからこそここまで戦えた、と」(『池田大作全集全集』第二二巻)。


 大阪事件への思いが、こう続いている。

「多くの市民は、不当な権力に苦しめられてきた。戦前は、もっと多かったにちがいない。胸がはちきれそうな思いがした。私は心の奥底で、生涯、不当な権力に苦しむ民衆を守り、民衆とともに進もうと決意せざるをえなくなっていった」(同)。


 民衆を守り、民衆とともに──無罪判決を受けた直後、池田は真っ先に同志の病気全快を祈っている。関西本部の運営役員だった大澤衛彦(大阪・豊中市、県主事)は「先生が戻られてすぐ『峰山さんはいるか』と問い合わせがあったのを覚えています」と語る。

「私は当時、関西本部の職員でした。結婚の後、肋膜炎にかかり、自宅療養していました」(峰山益子、関西婦人部総主事)。胸に水がたまり、咳と高熱が長引いていた。


 「あの日、事前に『関西本部に来れますか』と連絡があり、母と一緒に向かいました」と峰山は振り返る。

「歴史的な判決の直後に、たった一人のために、最高幹部の皆さんと一緒に題目をあげてくださった。『池田先生はそういう方なのだ』ということを、関西の学会員は骨身に染みてわかっていると思います」。