検事への伝言 ⑤
大阪高裁の郵便局に勤めていた山下通夫(大阪・守口市、副圏長)。
「昭和四十五年ごろ、職場の建物を見上げる数人の人影に気づきました」と語る。それは、池田が獄中闘争を貫いた建物を見学しに来た、アメリカの婦人部員たちだった。
「ほんまに驚いた。あの時『ああ、大阪事件の歴史は、関西や日本だけのものとちゃう(=違う)んやなあ』と痛感したんです」。
大阪地検や裁判所の入った建物が取り壊される時、山下は大阪事件にゆかりのある物品を払い下げてもらうよう、裁判所と粘り強く交渉し、許可を得た。
「たしかすべて一個五〇円だったと思います。全部捨てられる運命やった。トラックを借りて、たくさんの学会員がその前に立って涙した壁の赤レンガや、法廷の椅子、池田先生が立った証言台、座られた椅子、『傍聴満員』の札、とにかくたくさん運びました。
拘置所の鉄の扉の一部や赤レンガが、東京の池田のもとに届けられた。
「先生は『嫌なものを持ってきたなあ』と笑いながら、こう伝言されました。『牧口先生、戸田先生の獄中の様子がわかるものは、ほとんど残っていない。しかし関西は、私の歴史を残してくれた。ありがとう』と」
この品々をもとに、かつて関西記念館(旧・関西本部)で大阪事件をめぐる展示が常設されていた。
「来日したSGIの方々も熱心にご覧になった。いろんな国からぎょうさん来はった」。
「この鉄の閂(かんぬき)を押し開けて、池田先生は出獄されたのか」「私たちは先生と握手したことはないけど、この扉にふれたから同じことだね」。そう言い合って見学する異国の同志たちに、山下をはじめ大阪事件を知る歴戦の人々は、ときに涙をこらえ、通訳を介して語り続けた。