「私が会合に行った以上の思い出を」 ③
都立本所高校の定時制に通っていた島田かおる(東京・墨田区、支部副婦人部長)は「『池田先生も夜学生だったんだ』と驚きました。それまで知らなかったんです」と振り返る。
島田は石けん工場の箱詰めや金属の印刷会社、不動産の事務仕事などを続けながら高校に通った。朝はきょうだい五人のごはんを用意し、仕事と学校を終えて帰宅するのは午後十時を過ぎた。
父の正次は、浅草で人気のそば屋を営んでいた。1959年(昭和三十四年)に入会し、しばらくして母のみねたち家族も続いたが、それほど熱心ではなかった。知り合いの連帯保証人になった正次はある日、そば屋の店舗を差し押さえられてしまう。
「私が小学六年生の時です。友達に伝える余裕もなく、墨田の押上に引っ越して、四畳半と三畳の二間に家族九人で暮らしました」。
正次は友人の食堂を手伝ったが家計は厳しく、自宅のガスや水道まで止められた時もあった。
「子どもの私たちが近くのパン屋さんにパンの耳をもらいに行くのですが、毎日のように行くのでそのうちにもらえなくなりました。生活保護も受けました。両親が信心で立ち上がったのはこの頃です」。島田は笑みを浮かべて語る。
「あんな貧しい時でも、父と母は自転車に乗って、一緒に浅草まで学会活動に通っていました。両親そろって意気揚々と出かけるうしろ姿は、今でもまぶたから離れません」
正次とみねが、学会本部で行われた記念撮影会に参加した時のことである。
「家に戻った両親は、堰を切ったように、初めて会った池田先生の印象を『若いのにみんなに気をつかって、まるで一人ひとりに声をかけるように語りかけてくれた。本当にすごい人だ』と話していました」。
のちに島田自身、定時制高校の代表として池田を囲む懇談会に出席した。
「海のものとも山のものともわからない貧乏な高校生に、なぜここまで心を砕かれるのか、と感動しました。両親の言っていた意味がわかったような気がしました」。