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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   信号待ちの出会い ①


 「あの前の方、先生の車とちがうやろか」。大槻はあわてて山川の腰をぽんぽんと叩いた。山川はまさかと思いながら、赤信号で停まっている車列を縫ってバイクを前に進め、その車の左隣にたどり着いた。池田大作は、窓越しに二人と目を合わせた。

「主人が自分でガラス窓を開けました」と同乗していた妻の香峯子は語っている。こうした時、気軽に窓を開けて話しかけるのはあぶない、といつも心配していた。

 山川と大槻は学生服を着ていた。池田が「しっかり勉強しなさいよ」と言った時には、もう信号が青に変わった。

「車は御池通へ左折していきました。もう緊張して緊張して、ただ『先生』としか言えなかったです」と大槻は振り返る。

 この時、池田は三日間の予定で関西を訪れていた。前日は大阪で関西女子部総会に出席。この日は奈良本部、平城会館を経て京都に入り、翌日は滋賀の大津、彦根を回っている。

 車の窓を閉めた池田は、隣に座る香峯子に「夜学生だね」とうれしそうに話した。池田の他には同乗していた誰も、バイクの二人が夜学生だとは気づかなかった。


 この日の夜──七条御前の山川の自宅に創価学会の幹部が訪ねてきた。

「池田先生のからの伝言をお預かりしてきました」という。一冊の本と念珠が山川に手渡された。

「信じられませんでした」。発刊されたばかりの『指導要言集』に池田の直筆で、


  求道心  眞剣(しんけん)なる

  わが弟子の栄光を

  祈りつつ

  此の書を贈る

   京都に於いて


 と書かれていた。まだインクの匂いがしている。

 同じ時刻、醒井五条にある大槻の自宅にも同じ贈り物が届いたが、本に書かれた言葉は違っていた。表紙を開くと見返しに、万年筆で書かれたブルーの文字が躍っていた。


真剣な瞳、猛スピードのバイク、

勉学の洋服、すべて生涯、

僕は忘れまい。十年后(ご)を愉しみに。

          十一月四日 夜                                                        

「苦しき仕事 深夜の勉強

 これも修業ぞ 苦は楽し──」

苦学の一学生を励まそうと詩を綴った時、

池田は二十二歳。やむなく夜学を休学して

恩師の事業を支えるために奔走していた。

その詩「友よ強く」には、

やがてメロディーがつき、愛唱歌として

広く親しまれるように。夜学生をはじめ

人生の試練と闘う人々の支えとなっていく。


 「あれは登校中の出来事でした」と山川和良(京都・中央区、副支部長)は語る。1968年(昭和四十三年)十一月四日の午後六時半ごろ──秋の京都の夜空を丸い月が照らしていた。

 山川の運転する一二五ccのバイクの後ろには、同級生の大槻康夫(大阪・堺市、副本部長)が乗っていた。二人は京都市立堀川高校の専修夜間部四年生だった。鴨川沿いを走るバイクが三条通りを過ぎ、川端御池の交差点にさしかかった。

   羅針盤となった詩


 夜学で奮闘を重ねた人々の歴史を追いかける中で、「あの詩が心の支えになった」「卒業した後も、あの詩が人生の羅針盤です」という話を、何十回も耳にした。それは、


 「友よ強く」


 というタイトルの池田の詩である。池田の会長就任直後に聖教新聞で紹介され、のちにメロディーがつき、多くの人が口ずさんだ。

 敗戦後の混乱の中、苦学した池田の思いが込められている。この詩に励まされた人々の物語をたどる。


 読者の皆さん、いつも愛読ありがとうございます <m(__)m>

今日で、民衆こそ王者ー池田大作とその時代 「友よ強く」──働き学ぶ誇り(1)の連載が終了しました。次回からは、「友よ強く」──働き学ぶ誇り(2)を連載します。


  「父母も 君の命に」 ②


 大田富(とます)(東京・練馬区、副本部長)は「定時制にも行けないくらい貧しかった」と語る。父の音三郎はかつて、100人の従業員を抱えるゴム会社を大阪に構えていたが、倒産してしまう。親戚をたよって上京し、しばらくは大阪から持ってきた食器などを売って生活費を工面した。

 母の愛子はベニヤ工場で働き、1960年(昭和三十五年)、工場の同僚に折伏されて一家で入会した。長男の大田富は農業機具を造る工場で旋盤工などをしながら、都立江北高校の定時制に通った。

 「昭和四十一年の夏季講習会の折、高等部の数人がたまたま先生の近くに居合わせ、いろいろと懇談していただきました」。太田は、とても進学できるような経済状況ではないこと、しかし通信教育でもいいから大学に行きたいことを話した。池田は「君が正しいと思った通りに進みなさい。大丈夫だよ」と励ました。


 中央大学の二部に通っていた1971年(昭和四十六年)の春、母の愛子が亡くなった。工場の劣悪な環境のせいで、じん肺が悪化していた。さらに十二月、長く心臓を病んでいた父の音三郎も他界した。

 その後、大田の窮状を知る学生部の友人が、池田と会う機会があった。

「両親を立て続けに亡くした親友がいます」と聞いた池田は、その場に発刊したばかりの自著を取り寄せ、見返しに筆を走らせた。


   父母も

   君の命に

   おわすなば

   白馬に乗りて

   霊山めざすと

   十二月二十四日


 脇には「わが大田富君」と書き添えた。

 「妹と二人で、身を震わせて読みました」と語る大田。大学を卒業して海運会社に勤め、短大に通う妹の学費も援助した現在、整体院を経営する。定時制高等部の出身者のグループ(定時制光友会)でも、代表幹事として信頼を集めている。