EIKOの気まぐれ闘病日記 -80ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 愛読者の皆さん、いつもペタコメントありがとうございます。


<m(__)m>


 ある用事があって明日より二日程留守にするので、ペタや


コメント、ブログ更新がしばらく遅れますのでよろしくお願い


します。<m(__)m>

   「宝」を育てる手紙 ②


 操が友人から勧められて創価学会に入ったのは1961年(昭和三十六年)。二十歳の春だった。

「大阪市内の座談会に参加するためには、まず国鉄の茨城駅まで行くんですが、家から歩いて二時間もかかりました」。

 なんとかやりくりして自転車を買った。駅まで片道40分に縮まった。夢である電話交換手になるための勉強も、独学で始めた。座談会に参加し、多くの老若男女と出会い、「こんなにも楽しい世界があるのか」と思ったという。操は炎天下も木枯らしの夜も、工場と畑仕事で疲れた体を自転車に乗せた。でこぼこ道でペダルを漕ぎながら、題目を唱えることもあった。そして、


  友よ強く 雄々しく立てよ

  僕が信ずる 君が心を


 という一節から始まる池田の詩「友よ強く」をよく口ずさんだ。

「この詩は今も私の人生を支えてくれる柱です」と操は語る。

 やがて操は、結核で悩んでいた叔父への弘教を実らせた。病気ばかりしていた妹の喜美子がみるみる元気になり、雨漏りのひどかった家の屋根も二人で直せるようになった。

 そして信心を始めて六年目の秋、女子部の部体長として箕面の一帯を飛び回るなか、思いもよらない市役所の電話交換手として就職が決まった──。

 操の手紙には、青春時代から「池田先生の弟子として」ひとすじに生きてきた喜びが綴られていた。そして末尾には「美友ちゃんに会える日を楽しみに頑張ります」と添えられていた。村井孝郎は「家族以上に娘の成長を喜び、見守ってくださる人がいる。こうやって皆を『学会の宝』に育てていくのか、と教わりました」と語る。

   「宝」を育てる手紙 ①


 大阪に住む村井美友は五年前、看護師を養成する全寮制高校に合格し、地元の婦人部員からお祝いの手紙をもらった。今も大切にしている。美友の父、孝郎(大阪・箕面市、本部長)は「私たち夫婦も涙ながらに読みました。『友よ強く』を支えに生き抜いた、小田さんの青春時代が綴られていました」と振り返る。

 

 その手紙を書いた小田操(同、婦人部副本部長)は、七歳の時に父を病で亡くした。太平洋戦争が終わって二年後のことである。さらに中学三年で母も病死してしまう。手紙にはその後の体験談が同封されていた。

 ──十四歳の操。七歳の喜美子。身寄りのない二人の姉妹に残されたのは少しの田畑だった。操は電気製品を組み立てる工場で働きながら、真っ黒になって小さな畑を耕した。喜美子の肩を抱いて、よく星空を眺めて泣いた。

「二人で生きる決心をして、山へ木こりにも行きました。両親のそろった家庭を見ると、たまらなくうらやましかったですよ」。

 


   信号待ちの出会い ③


 山本比名代(東京・江東区、支部婦人部長)にも「なぜわかるのだろう」と思った経験がある。

 父の山本冶司は浅草で輸入タバコを扱う露天商だったが、ほとんど働かなかった。母のはなや、比名代たち娘がよく店番に立たされた。

「母が知り合いの露天商のおばさんに父のことを相談したら、そのおばさんが学会員だったんです」。1954年(昭和二十九年)、家族で入会した。

 比名代はやがて都立南葛飾高校の定時制に進学し、東京大学の保健センターで働いた。定時制に学ぶ高等部員の代表として池田と懇談する機会もあった。


 結婚後、長男が難病の診断を受けた。

「奈落に落ちそうな気持になりました。医学で治せないなら、この信心で闘おうと決意しました」と比名代は振り返る。

 母のはな、夫の篤(同、地区部長)とともに、信濃町の学会本部を訪れた時のことである。比名代は長男を抱いていた。

 信濃町の駅前を一台の車が通り過ぎた。まもなく一人の本部職員が比名代たちのもとに走ってきた。さっきの車に池田が乗っていたらしい。

池田からの伝言は、

「(今すれ違った家族は)うちの人(=創価学会員)だから。『お子さんを抱いて歩いていたお母さん』に激励を」

 というものだった。

「あの一瞬をきっかけに、この子にはきっと使命があるんだと思えるようになりました」と比名代は語る。

 青春の日に働き学んだ人々が、今も心の支えにしている池田の励まし。今号ではその淵源に迫りたい。

   信号待ちの出会い ②


 二人ともそれぞれの自宅で、呆然としながら池田からの伝言を聞いた。

「ただちに自宅へ行って、あの高校生に渡してもらいたい。いま書いて直接手渡すことが彼らのためになるから、という趣旨でした」(山川)。大槻は「勉学の洋服」の一言を目にして「胸が震えた」という。「

「万が一、どこかで先生にお会いすることがあるとしたら、ちゃんとした学生服姿で、と思っていたんです」。


 二人とも新聞配達をしながら定時制に通っていた。夜の交差点での予想もできない一瞬の出会いで、なぜ自分たちの思いを汲むことができるのか。二人は今も不思議に思う。

 さらに翌日、「奈良のお土産だよ」という伝言とともに二人に柿が届られた。年が明け、二月には京都の新拠点である京都文化会館が完成した。

「あの夜学生を呼んであげよう」。池田は自ら出席する落成式に二人を招待した。翌月、二人は高校を卒業。池田の真心に対する御礼と、社会人として羽ばたく決意を込めて池田に手紙を送っている。

 「夜学に行ったことは私たちの宝の歴史です。一介の高校生をなぜここまで励ましてくださるのか、というのが二人の共通した思いでした」

現在、山川は京都で、大槻は大阪の堺で、それぞれ学会活動の最前線に立っている。