EIKOの気まぐれ闘病日記 -79ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「友よ忘るな 微笑(ほほえみ)を」 ①


 「1950年(昭和25年)ごろであったと記憶している。横浜・鶴見の会員宅を訪問した折、その家の婦人が一通の手紙を見せてくれた」(『池田大作全集』第一二三九巻)

 鶴見は、戦後の創価学会が再出発を果たしていく要の地域だった。当時を知る草創の幹部の一人は「葉山のはずれ漁村のかたすみから逗子、横須賀、そして横浜周辺の町々のすみずみに、池田先生をかこみ数かぎりない集いがありました」と書き残している。

 池田が目にした手紙は、その家の十代半ばの息子から届いたものだった。家計を助けるため、他県に出て、住み込みで働いている。一部屋に数人の共同生活で、夜になるとタオルと石けんを持って「風呂に行く」と言っては裏山にのぼり、勤行を続けているという。

 「手紙を読み終えると、私は即座にペンをとった」(同)


  友よ強く 雄々しく立てよ

  僕が信ずる 君が心を

  苦しき仕事 深夜の勉強

  これも修行ぞ 苦は楽し

  君が信念 情熱を

  仏は じっとみているぞ


  友よ負けるな 希望を高く

  僕が信ずる 君が心を

  努力 努力 また努力

  あの日の誓い 忘れるな

  君の意気と 若さとで

  断じて進め あくまでも


  友よ忘るな 微笑を

  僕が信ずる 君が心を

  清らかに 夢みつつ

  進みゆく 君が心の美しさ

  ああ わが友よ強く

  君が友よ


 「後日、彼が奮起してくれたことを知り、本当に嬉しかった」(同)という池田自身、このころ一人暮らしを始めたばかりだった。働きながら学ぶ最も苦しい日々だった。やがて夜学も断念せぜるを得なくなっていく。日記には「学びたい」という心の叫びが滲んでいる。


 


 ブログ読者の皆さん、ペタ、コメントいつもありがとうございま


す。m(__)m


 遅くなりましたが、今皆さんのところにペタのお返しにお邪魔


してきました。遅くなってすみません。m(__)m


 先週は息子の洗濯物を片づけるため、重い洗濯物を持ち、


アパートと、コインランドリーを数回往復したり、病院に連れて


行ったりしてヘトヘトになってしまいました。


 その疲れも取れないまま、昨日は採血検査と診察日で、東京、


表参道まで行ってきました。


 検査の数値も全く変わらず、メタボ予備軍のままです。


先週の疲れも残っていたので、帰る頃にはヘトヘトになってしま


いました。今日はあるお宅で○○部の会合があったので

すが、


動けないので行けませんでした。


 当分疲れはとれそうもありません。ほんとに情けないです。ガーン


体調を見ながらマイペースでブログ更新していきますので、よろ


しくお願いします。m(__)m

   「宝」を育てる手紙 ④


 「あの歌と定時制の時代があったからこそ今の自分があります」。都立荒川商業高校の定時制に通っていた大曽根富子(荒川区、婦人部本部長)は、記念撮影会の場にいた一人である。日本橋の貴金属会社で働いていた。

「それまでは暗誦するものだった『友よ強く』に、メロディーがついたことがうれしかった。あの詩は夜学で苦労した人にしかつくれないものだと感じます」。

 

 大曽根の地区には四人の定時制高校生がいた。

「地区部長さんは『君たちが学会の宝なんだよ』といつも励ましてくれました。四人全員、卒業できました。

 「勉強したくて夜学の中央商科短大を選んだ」という竹内繁(埼玉・久喜市、副本部長)。結核で休学し、五年かけて卒業した。当時は荒川に住んでおり、この記念撮影にも参加した。

「『友よ強く』の詩はいつもカバンに入れていて、知らないうちに覚えていました」と語る。

 「昭和四十五年に吹き荒れた言論問題の嵐の前後、先生は体調を崩され大変な時期もあったと聞いています。まさに命を削るような思いで、数えきれない同志に会い続けてくださったのだと思います」

 多くの友の胸に迫った「友よ強く」。その原詩は、二十二歳の池田が訪れた一軒の家庭指導の場で生まれた。

 読者の皆さん、いつもペタ、コメントくださる皆さん、いつもあ


りがとうございます。m(__)m


 実は横浜の息子のアパートに片付けに行っておりました。


片づけの他に、汗かきのせいか、背中や二の腕に赤いポツ


ツがかなり広い範囲で出来ているので、スマホで土曜日も


やっている皮膚科を探して受診しました。


 その病名に驚きましたガーン毛孔性苔癬(、もうこうせいたいせ


ん)と言って、医師曰く「これは100%父親からの遺伝ですか


ら」と言われてしまいました。遺伝した場合発症率は50%だ


そうで、ホルモン代謝異常、ビタミン代謝性異常、資質代謝


異常が考えられるそうです。


 息子は医師からの「遺伝」という言葉を聞いてから、すっか


治療の意欲がなくなってしまったようです。


抗生剤と、ビタミンC剤と塗り薬をもらって帰ってきました。


 息子の部屋は東向きなので、午前中しか日が射しません。


おまけに息子の部屋は、二槽式の洗濯機しか置けないので


洗濯で時間を取られるし、コインランドリー代がかかるはで


大変なんですが、今回はアパートに着いた早早、大量の洗


濯物と遭遇して、全部片づけるのに4時間弱かかりましたガーン


 実家にいる時にもっといろいろ教えておけばよかったと反省


しています。


 息子は10月で22歳になるんですけど、まだマメに行ってあげ


ないとだめみたいです。


 まだペタ返しが遅くなると思いますのでよろしくお願いします。


    m(__)m


 







   「宝」を育てる手紙 ③


 「友よ強く」は昭和三十年代、「生活の苦しさと闘う詩」として広く親しまれた。やがて高等部の誕生を経て、夜学生の愛唱歌になっていく。

 この詩に曲をつけたのは今城洋一という専修大学の学生だった。妻の容子(さいたま市、婦人部副本部長)は「夫自身は夜学出身ではありませんでした。学生部の友人のお宅で、初めて『友よ強く』の詩を知ったそうです」と語る。

 今城洋一の郷里は福島県の棚倉だった。母のトミ子は1957年(昭和32年)、洋一の病気をきっかけに信心を始めた。父の等は入会したものの、ことあるごとに学会を批判した。


 専修大学に合格し、上京した洋一は荒川区の尾久に住んだ。近所の「小松湯」という銭湯の息子である高橋幸男(東京・東久留米市、副区長)の部屋に、学生部の仲間たちがよく集った。

 今城はある日、部屋に置いてあったガリ版刷りの詩を、見るともなく目にした。高橋が定時制メンバーに渡すために用意したものだった。


   苦しき仕事 深夜の勉強

   これも修行ぞ 苦は楽し

   君が信念 情熱を

   仏は じっとみているぞ


 素直な詩が目に焼きついて離れなかった。もともと洋一は音楽大学に行きたかったが、父に反対され断念していた。誰かに作曲をお願いされたわけではない。ただ「この詩を多くの夜学生に知って欲しい」と思い、一晩で曲をつけた。

 詩をかみしめるような歌いあげるメロディーは、荒川の学生部や高等部を中心に口伝で静かにひろがっていった。池田の前で初めて発表されたのは1972年(昭和四十七年)二月、荒川の同志が集まった記念撮影会の席上だった(台東体育館)。有志の歌声を聴き終わった池田はすぐ「この歌はいい。永遠に残すためにレコードにしよう」と提案した。この日以降、全国各地で歌われるようになっていく。

 今城洋一の母、トミ子はこの年に生涯を終える。父の等も、少しずつ信心に励むようになった。