民衆こそ王者ー池田大作とその時代 「友よ強く」──働き学ぶ誇り(2) 7 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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   「宝」を育てる手紙 ③


 「友よ強く」は昭和三十年代、「生活の苦しさと闘う詩」として広く親しまれた。やがて高等部の誕生を経て、夜学生の愛唱歌になっていく。

 この詩に曲をつけたのは今城洋一という専修大学の学生だった。妻の容子(さいたま市、婦人部副本部長)は「夫自身は夜学出身ではありませんでした。学生部の友人のお宅で、初めて『友よ強く』の詩を知ったそうです」と語る。

 今城洋一の郷里は福島県の棚倉だった。母のトミ子は1957年(昭和32年)、洋一の病気をきっかけに信心を始めた。父の等は入会したものの、ことあるごとに学会を批判した。


 専修大学に合格し、上京した洋一は荒川区の尾久に住んだ。近所の「小松湯」という銭湯の息子である高橋幸男(東京・東久留米市、副区長)の部屋に、学生部の仲間たちがよく集った。

 今城はある日、部屋に置いてあったガリ版刷りの詩を、見るともなく目にした。高橋が定時制メンバーに渡すために用意したものだった。


   苦しき仕事 深夜の勉強

   これも修行ぞ 苦は楽し

   君が信念 情熱を

   仏は じっとみているぞ


 素直な詩が目に焼きついて離れなかった。もともと洋一は音楽大学に行きたかったが、父に反対され断念していた。誰かに作曲をお願いされたわけではない。ただ「この詩を多くの夜学生に知って欲しい」と思い、一晩で曲をつけた。

 詩をかみしめるような歌いあげるメロディーは、荒川の学生部や高等部を中心に口伝で静かにひろがっていった。池田の前で初めて発表されたのは1972年(昭和四十七年)二月、荒川の同志が集まった記念撮影会の席上だった(台東体育館)。有志の歌声を聴き終わった池田はすぐ「この歌はいい。永遠に残すためにレコードにしよう」と提案した。この日以降、全国各地で歌われるようになっていく。

 今城洋一の母、トミ子はこの年に生涯を終える。父の等も、少しずつ信心に励むようになった。