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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「帰ったらご両親に『ありがとう』を」 ①


 池田は苦学する高校生たちを最高の賓客として扱った。谷敏子(東京・世田谷区、区副婦人部長)も、ふかふかの慣れない座布団に緊張して座っていた一人である。都立大崎高校の定時制に通い、昼はカメラの組み立て工場で働きていた。

 母の小川フサは病弱に悩み、いくつも宗教を遍歴した。1953年(昭和二十八年)に「これが最後だ」と腹を決めてフサが選んだのが創価学会だった。ほどなくして父の長吉も続いた。

 長吉は東急電車のレールの枕木を交換する仕事をしていた。敏子が十歳の時に病で亡くなった。

「父は『この信心で必ず幸せになれるからね』と常々言っていました。父が亡くなった時は『幸せになれるって言ってたじゃない』と泣いてばかりでしたが、やがて、大好きだった父が言っていたその言葉を、私が証明しようと心に決めました。

 「真綿につつまれたような安心感でした」 ②


 集まった証言のなかには、各地の高校の弁論大会で「友よ強く」を引用し、熱弁を振るって入賞した話題や、卒業生代表として読み上げた答辞で「友よ強く」を紹介したというものも数多くあった。

 大木勝博(東京・葛飾区、副支部長)の父、勝義は、なめし革の加工所を営んでいた。

「喘息の発作で長期入院していた間に、信頼していた人に店を乗っ取られてしまったのです」。母の富子と四人の子どもの六人家族で、四畳半一間の生活が続いた。一家で信心を始めてから、徐々に勝義の病状も生活も好転していった。

 大木は都立本所工業高校の定時制に通った。

「卒業の時、卒業アルバムで『友よ強く』の詩を引用しました。たくさんの同級生から『いい詩だね』と言われて、誇らしく思いました」。


 加藤美津子(東京・板橋区、婦人部副本部長)は「卒業式で総代に選ばれ、答辞で『わが東洋商業の先輩の詠まれた詩』として『友よ強く』の全文を読みました」と語る。東洋商業(現・東洋高校)──池田の母校である。

 その加藤が初めて池田と会ったのは、五〇人を超える定時制高校生たちと池田がすき焼きをともにした日だった。領国の日大講堂で男子部総会を終えた後、池田は夜学生たちが待つ青山の店に駆けつけた。1968年(昭和四十三年)十一月十七日のことである。

 男女合わせて約六〇人。胸に抱いた希望も悩みも六〇通りだった。

 倉林民子(神奈川・茅ヶ崎市、県副婦人部長)は茅ヶ崎高校の定時制に通い、小学校の事務員として働いていた。

「そのお店はとてもきれいな玄関で、自分の履いている靴で入っていいのだろうかと恥ずかしく思いました。すき焼きなんてそれまで食べたことがなかったし、『やあ、よく来たね!』と先生が入ってこられると、なんともいえない安心感を覚えました」。

 「真綿につつまれたような安心感でした」 ①


 佐藤聖子(秋田・大仙市、支部婦人部長)は沖縄の那覇で生まれた。二歳の時に両親が離婚。祖父母と叔父夫婦のもとで育った。中学入学後、父親に引き取られた。「何かあるとすぐ殴る父でした」。

 母の家を探し、訪ねた。その時、母が学会に入ったことを知る。

「仏壇の横に『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』と、母の字で書かれた紙が貼ってありました」。

中一の冬、聖子も信心を始め、座談会などに参加するようになった。父の目があり、自宅に御本尊は安置できなかった。

 毎日、新聞配達を終えてから学校に通った。中学の同窓生に学会員の女の子がいた。二年生のある日、一枚のメモを渡してくれた。

「彼女は、いつも私の顔や体にあざがあったのを見かねて、励ましてくれたんです」。メモには「友よ強く」の詩が丁寧な字で書かれていた。

 「友よ強く 雄々しく立てよ/僕が信ずる 君が心を」。そのメモを聖子は何度も読み返した。

「まるで心が温かい真綿につつまれたような安心感で、涙があふれました。この詩を書いてくれた池田先生と一緒に生きよう、と思いました」。


 首里高校の三年生だった夏、首里城の近くでのちに結婚することになる男性と出会った。

「夫は秋田の人で、返還前の沖縄に旅行に来ていました」。文通で交際を続けた。父の家庭内暴力は続いていた。高校卒業後、結婚を決めて秋田へ向かった。

 父にみつかれば殺されると思った。小さな紙袋を一つ抱え、鹿児島行の船に乗った。紙袋には最低限の着替え、本、琉球の政府のパスポート、そして五年前に同級生が書いてくれた「友よ強く」のメモを詰めこんだ。

 その後も苦労が続いた。嫁姑の関係に悩んだ。義父も酒が入ると暴言をはく人だった。家庭から信心に反対されたが、結婚して十四年目、家に御本尊を安置できた。聖子が重い膠原病を乗り越えていく姿に触れ、マツダの自動車販売店を経営する夫の登(同、地区幹事)も信心を始めた。

 佐藤夫妻を含め、社員が一〇人ほどの小さな店だが、2007年と翌年、二三〇社以上が競う全国技術大会で、二年連続の優勝を勝ち取った。

 「友よ強く」を抱きしめて嫁いだ日から、三五年が経っていた。

   「友よ 忘るな 微笑を」 ③


 下野由子(岐阜・各務原市、地区婦人部長)は「短大の受験も、看護婦(当時)の国家試験も『友よ強く』が支えでした」と語る。

 二歳の時、先天性股関節脱臼の診断を受けた。姉も同じ病気で、治療費がかさんだ。働き詰めの母は体を壊し、子宮を全摘、父が喉頭がんを患った。親戚からも見放された1959年(昭和三十四年)、一家で入会した。

「信心を始めてから、両親は病苦と経済苦を前に一歩も退きませんでした」。


 下野は兵庫にできたばかりの衛星看護を学ぶ高校に進んだ。

「二年生の春、豊岡市で学会の大きな会合ありました。中に入れず、会場だった高校のグラウンドで待ちました」。池田はそのグラウンドまで来て一周し、下野たちに声をかけた。

 「早く家計を支えたかった」という下野は、二年間で正看護婦になれる愛知の短大に進んだ。そのころ「言論・出版問題」が起きた。

「あの時、つくづく先生の弟子として力をつけたいと思いました」。

学生時代に芽生えたその思いを抱き続け、下野は三十一歳の時、名古屋市の総合病院の看護婦長になる。以降、二つの病院で看護婦長を務め、今は准看護学校の教員として、十代から五十代の生徒に看護学を教える日々だ。


 田中実(東京・大田区、副本部長)は江戸時代から続く大工の家に、四人兄弟の次男として生まれた。六畳一間に六人暮らしだったという。

「父の清太郎は職人気質で子煩悩の反面、飲む打つ買うの揃った人で、借金取りも夫婦げんかも絶えない家でした」。母のふくが、つきあいのある瓦職人の妻から折伏され、わらをもつかむ思いで入会したのは1958年(昭和三十三年)の暮れだった。

 田中が全日制の都立高校の1日目の受験を終えた日、家の中から話し声が聞こえた。「入学金が払えない」──両親が相談していた。動揺し、結局、不合格に。幸い、二次募集をしていた都立八潮高校の定時制に進んだ。

「合格結果を見て、念願だった高等部員になれることがうれしくて、夜空を眺めながら涙をこらえて青物横丁駅まで歩いたことをよく覚えています」。

 入学と同時にテレビの部品メーカーで品質管理の仕事に就き、学校は四年間休まず通った。

「『友よ強く』は私にとって『自分だけが苦しいんじゃない』というメッセージでした。定時制の高等部時代が私の人生の原点です」。

  「友よ忘るな 微笑を」 ②


 「朝から頭が痛む。身体を大事にせねばならぬ」「神田にて『パスカル瞑想録』『情熱の書』他一冊、計三冊購入。合計、百二十円也」「折伏をせねばならぬ。学問も遅れている。明日は学校(夜学)にゆきたい。ずいぶん休んだ。友人が待っていることだろう」(1949年六月十三日)

 「靴を修繕する。一金百円也。身体が疲れてならぬ。夜学は、無理の様子。(戸田)先生も、非常に、大変な様子」(同十月二十六日)。

ときには牛乳とピーナッツで昼食をすませることもあったが、家庭指導で訪れた家のほうがもっと困窮している場合も多かった。そうした家の子どものために、池田はしばしば焼いもを買って行った。


 大晦日の日記。「来年は、夜学に再び行きたい。来年は、思うように勉強したい。来年の、自分の運命は、どう動くか、考えられぬ」。

 第三代会長を辞任した1979年(昭和五十四年)、池田は「友よ強く」をつくった時代に触れ合った、幾多の人々を思い浮べながらこう語っている。

「名も名誉もない人が功労者だ。そういう人を守るのが私の役目だ。二〇年、三〇年経っても名前の出てこない人がたくさんいる。そういう人を大事にするのが私の役目なんだよ」。


 取材を重ねるにつれ、次々と「友よ強く」をめぐる証言が集まった。

 東京の世田谷工業高校に通っていた眞島壮男(埼玉・所沢市、本部長)。二年生の時に肺結核を発症した。

「世田谷の定時制に通う仲間で、諳んじるまで読み合った『友よ強く』が病を乗り越える力になりました。三年かかるといわれた肺病を三ヶ月で治し、仕事も学業もやり抜いた高校時代が私の原点です」。