「友よ 忘るな 微笑を」 ③
下野由子(岐阜・各務原市、地区婦人部長)は「短大の受験も、看護婦(当時)の国家試験も『友よ強く』が支えでした」と語る。
二歳の時、先天性股関節脱臼の診断を受けた。姉も同じ病気で、治療費がかさんだ。働き詰めの母は体を壊し、子宮を全摘、父が喉頭がんを患った。親戚からも見放された1959年(昭和三十四年)、一家で入会した。
「信心を始めてから、両親は病苦と経済苦を前に一歩も退きませんでした」。
下野は兵庫にできたばかりの衛星看護を学ぶ高校に進んだ。
「二年生の春、豊岡市で学会の大きな会合ありました。中に入れず、会場だった高校のグラウンドで待ちました」。池田はそのグラウンドまで来て一周し、下野たちに声をかけた。
「早く家計を支えたかった」という下野は、二年間で正看護婦になれる愛知の短大に進んだ。そのころ「言論・出版問題」が起きた。
「あの時、つくづく先生の弟子として力をつけたいと思いました」。
学生時代に芽生えたその思いを抱き続け、下野は三十一歳の時、名古屋市の総合病院の看護婦長になる。以降、二つの病院で看護婦長を務め、今は准看護学校の教員として、十代から五十代の生徒に看護学を教える日々だ。
田中実(東京・大田区、副本部長)は江戸時代から続く大工の家に、四人兄弟の次男として生まれた。六畳一間に六人暮らしだったという。
「父の清太郎は職人気質で子煩悩の反面、飲む打つ買うの揃った人で、借金取りも夫婦げんかも絶えない家でした」。母のふくが、つきあいのある瓦職人の妻から折伏され、わらをもつかむ思いで入会したのは1958年(昭和三十三年)の暮れだった。
田中が全日制の都立高校の1日目の受験を終えた日、家の中から話し声が聞こえた。「入学金が払えない」──両親が相談していた。動揺し、結局、不合格に。幸い、二次募集をしていた都立八潮高校の定時制に進んだ。
「合格結果を見て、念願だった高等部員になれることがうれしくて、夜空を眺めながら涙をこらえて青物横丁駅まで歩いたことをよく覚えています」。
入学と同時にテレビの部品メーカーで品質管理の仕事に就き、学校は四年間休まず通った。
「『友よ強く』は私にとって『自分だけが苦しいんじゃない』というメッセージでした。定時制の高等部時代が私の人生の原点です」。