「真綿につつまれたような安心感でした」 ②
集まった証言のなかには、各地の高校の弁論大会で「友よ強く」を引用し、熱弁を振るって入賞した話題や、卒業生代表として読み上げた答辞で「友よ強く」を紹介したというものも数多くあった。
大木勝博(東京・葛飾区、副支部長)の父、勝義は、なめし革の加工所を営んでいた。
「喘息の発作で長期入院していた間に、信頼していた人に店を乗っ取られてしまったのです」。母の富子と四人の子どもの六人家族で、四畳半一間の生活が続いた。一家で信心を始めてから、徐々に勝義の病状も生活も好転していった。
大木は都立本所工業高校の定時制に通った。
「卒業の時、卒業アルバムで『友よ強く』の詩を引用しました。たくさんの同級生から『いい詩だね』と言われて、誇らしく思いました」。
加藤美津子(東京・板橋区、婦人部副本部長)は「卒業式で総代に選ばれ、答辞で『わが東洋商業の先輩の詠まれた詩』として『友よ強く』の全文を読みました」と語る。東洋商業(現・東洋高校)──池田の母校である。
その加藤が初めて池田と会ったのは、五〇人を超える定時制高校生たちと池田がすき焼きをともにした日だった。領国の日大講堂で男子部総会を終えた後、池田は夜学生たちが待つ青山の店に駆けつけた。1968年(昭和四十三年)十一月十七日のことである。
男女合わせて約六〇人。胸に抱いた希望も悩みも六〇通りだった。
倉林民子(神奈川・茅ヶ崎市、県副婦人部長)は茅ヶ崎高校の定時制に通い、小学校の事務員として働いていた。
「そのお店はとてもきれいな玄関で、自分の履いている靴で入っていいのだろうかと恥ずかしく思いました。すき焼きなんてそれまで食べたことがなかったし、『やあ、よく来たね!』と先生が入ってこられると、なんともいえない安心感を覚えました」。