EIKOの気まぐれ闘病日記 -77ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「帰ったらご両親に『ありがとう』を」 ⑤


 由香利は1979年(昭和五十四年)に次男を出産するが、先天性の思い心臓疾患が見つかり、命の保証はできないと医師から告げられた。

「すぐに保険の手続きのために名前をつける必要があり、夫婦で相談して池田先生に命名をお願いしました」。翌日、病院のベットで横になっていた由香利のもとに夫の潔(東京・板橋区、副総区長)が息を弾ませて戻ってきた。

 池田が赤ん坊につけた名前は「伸生」だった。

「息子の名前は『生き伸びよ』と読めます。夫婦で驚きました。命名をお願いした時は急いでいたので、心臓の病状などは一切報告していなかったのです」。

 ああ、この子にも必ず使命があるのだ。ベットの上で由香利はそう確信した。伸生は少し障がいが残り、片耳が不自由だが、病を乗り越え、高校の普通学級を卒業した

「帰ったらご両親に『ありがとう』を」 ④


 すき焼きは緊張してあまり食べられなかった。池田の「貧乏は宝だよ。お父さんとお母さんに感謝しなさい。今日は家に帰ったら『ありがとう』と言いなさい」という一言が心に焼きついた。

「夜学生は特に体を大事に」

「賢人は自分をコントロールしていける。なかなかそうもいかないけれど、信心があれば可能です」

 「いまはどんな境遇であろうとも、それでいいのです。今は小僧のような立場の人のほうが、かえって将来、人生の仕上がりが立派に、絢爛となっていくのです。それでいいじゃないか」

 池田の話は次第に厳しさを増していった。

 「返事は簡単です。決意も簡単です。しかし信心はとうとうと流れる水のごとくに不変でなかればならない」

 「私は今まで何度も何度も、死ぬような思いをしてきましたが、全部勝ってきました。何度も何度も、死ぬような思いをしてきたのです。そして今日の私があるのです。本当に可愛い者はつっぱねて苦しめるのだ。獅子の子はつき放されて育つのです」

 「私は今日がいちばんうれしい。私も夜学、戸田先生も夜学、これは牧口先生以来の伝統なのです」

 池田は帰り際、涙をこぼす夜学生たちに「泣いちゃだめだ、強くなりなさい。涙を流すのは広宣流布ができた時だけでいい」と言い聞かせた。家に帰った由香利は、真っ先に両親に「ありがとう」と言い、池田の言葉を伝えた。

「母はしみじみと『そう言ってくださる池田先生にあなたが会えたことが、私の宝だよ』と言いました。



 「帰ったらご両親に『ありがとう』を」 ③


 池田は彼らに「好きなだけ食べなさい」と勧め、自分はほとんど箸もつけず、彼らが料理をほおばる様子を笑顔で眺めていた。

 菊池節子(埼玉・春日部市、婦人部副本部長)は池田から「小林さんと同じ会社なんだね」と声をかけられた。その場に同席していた村川明子(旧姓小林。東京・墨田区、支部副婦人部長)と菊池は同じ運輸会社に勤めていた。

「先生は五〇人以上のメンバー一人ひとりのことをよく知っておられました」。

 竹井由香利(東京・板橋区、区副婦人部長)は都立北野高校の定時制に通い始めた時、「夜学では一流企業にも入れない。こんなに苦労して何の意味があるのだろう」と悩んでいた。

 母の山口清子(東京・豊島区、支部副婦人部長)が入会したのは1953年(昭和二十八年)である。父の茂は砥石販売会社の社長だった。神田神保町にビルを構え、庭付きの家に住む裕福な家庭だったが、事業が傾くと倒産まではすぐだった。

「コッペパン一つを家族四人で分け合ったこともありました。再び父の仕事が上向きになった時、姉が私立高校に進学し、私が中学を卒業する時にはまた経営が悪化し、定時制を選びました」。

 由香利は昼間、水道メーカーの会社で働いた。

「なんでこんなことをやっているんだろう。私だけ不運だ」と思っていた。あの「参加者全員に色紙が贈られた会合」に参加して、人生の風景が変わり始めた。

  「帰ったらご両親に『ありがとう』を」 ②


 菅原作治(神奈川・相模原市、副区長)は池田と食卓を囲んだその日、外苑のいちょう並木から見上げた空がよく晴れていたことを覚えている。

 父の寅吉は群馬の吾妻鉱山で働いていた。発破の作業中に起きた事故でッ背骨を折ってしまう。

 一家は入会後、宮城の大崎市に移り住んだ。

「父に手を引かれて弘教に歩きました。塩をまかれるのはしょっちゅうでしたよ」と菅原は語る。家計は常に困窮し、中学生の時は切り倒した木を運ぶアルバイトなどに精を出した。

 県内の工業高校に入学したが、学費はおろか通学の電車賃すらなく、三カ月で中退せざるをえなかった。無念だった。

 その直後、静岡で行われる夏季講習会に高等部の代表として参加することになった。しかし両親とも出稼ぎに行っており、旅費がない。

「そのことを聞きつけた地元の婦人部の方が旅費を出してくれ、壮年部の班長さんたちが宿舎で炊くお米を用意してくれました」。

 夏季講習会で指導会を担当した全国幹部に、それまでの経緯を懸命に伝えた。

「勉強を続けたいが、これ以上、高校に通えません」。十六歳の菅原は話ながらこぼれる涙を止められなかった。

 翌朝、池田が滞在している宿舎に呼ばれた。

「先生から『君と、旅費を出してくれた婦人部の方、そしてお米を用意してくれた壮年部の方に』と、それぞれ念珠をいただきました。あの時のことは忘れられません」。菅原は上京し、大田区のプラスチック工場に職を得て、都立小山台高校の定時制へ再入学した。「友よ強く」の詩を知ったのはその時である。

「『苦しき仕事 深夜の勉強』はまさに自分のことだと感じました」。