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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   母と息子の金メダル ①


 しげ子は働きながら、中野支部などで地区担当員(=現在の地区婦人部長)として駆け回った。平屋の一室を折本業の仕事場にした。美津子たちは押入れの中で寝た。

 「当時は文京区の平屋住まいでした。壁越しに隣から『きょうは卵だよ』という声が聞こえて、うらやましいと思ったものです」

 東洋商業に通うようになってからは、早朝の市場などで事務仕事に就いた。卒業式で総代に選ばれ、答辞で「友よ強く」を読み上げたことはすでに触れた。

 美津子の本当の試練は、結婚後に訪れた。


 1979年(昭和五十四年)十月。東洋高校の卒業式で池田を囲む懇談会が、神奈川文化会館で行われた。第三代会長辞任の半年後である。

 池田は美津子を見つけ、「子どもさん、大きくなっただろう」と声をかけた。「長男の忠明は四歳でしたが、知的障害がありました。正直に『言葉が出ないんです』とお伝えしました」。出産時に首にヘソの緒が絡まってしまい、仮死状態で生まれ、息ができず、人工呼吸も行われた。その時の後遺症だった。

 池田は即座に「大丈夫。あなたを見れば大丈夫だとわかるよ」と励ました。

「お母さんが明るければ、必ず開けるよ。子どもは今だけがすべてじゃない。将来だよ」「いい子だろう。かわいい子だろう」。その日、何度も美津子に語りかけた。

   新橋と水道橋 ③


 加藤美津子が自宅近くにあった東洋商業の定時制に通い始めたのは、十七歳の時だった。中学を卒業後、二年間は事務の仕事をした。

「自宅が学会の座談会会場で、集まってくる高等部や学生部の人たちの話を聞いているうちに『どうしても勉強したい』と思うようになったんです」。

 池田の母校であることは入学してから知った。「生徒の間では『怖い先生』として知られていたある教師の方が、ある時、私が学会員だということを知ると『池田さんは勉強家だったよ』と、遠足に行った時の写真を見せてくれました。池田先生のことを話す時は、ふだんの怖い顔をほころばせて、うれしそうに話してくれたのが印象に残っています」。


 美津子の母である森しげ子は、生まれた直後、両親と生き別れた。八歳のころ、東京の文京区に住む親戚の家に養子に入った。

「養子に入った母は将来、その家の長男と結婚する予定でした」。だが、その長男は太平洋戦争で出征し、戦死してしまう。

 まだ幼かったしげ子は、病で寝たきりになった育ての母の下の世話までやった。その母も亡くなり、十九歳の時、しげ子は育ての父である芳造と結婚することになった。二十四歳の年の差であり、連れ子が三人いた。その芳造との間に、長女の美津子をはじめ四人の子が生まれた。

 「父は大の酒好きで、私が小さいころ密造酒やカストリ酒を呑み過ぎ、メチルアルコールの影響でほとんど目が見えなくなってしまいました」。

芳造は印刷の植字工だったが、働けなくなった。しげ子は折本印刷の仕事で生計を立てようとした。

 「困り切っていた時、母は群馬の親戚から折伏されたんです。昭和三十二年でした。父はその親戚に向かって鉈を振り上げて反対しましたが、母はみるみる明るく元気になっていきました」。その姿を見て、反対していた芳造も子どもと一緒に翌年入会した。美津子が九歳の時だった。

    新橋と水道橋 ②


 「夜学に通う水道橋への杜仲に勤務先(=昭文堂印刷)があることは、願ってもないことだった。当時、兄たちはまだ戦地から帰っておらず、夜学しか勉学の道がなかったのである」

 池田は毎朝六時半に森ケ崎の自宅を出た。昭文堂印刷は小さな印刷所だった。主人の黒部武男は、甲府商人ならではの粘りと誠実さを備えた経営者だったという。

 「新橋の駅を降りると、浮浪者が一日の始まりであるかのように、あてどなく行き来していた。駅のガードに沿って闇市があり、早くも賑々しさを見せている。NHKのあった愛宕山のほうへ歩き、会社へ着くと、黒部さんはきまっててきぱきと仕事にかかっていた」


 池田は営業にまわり、印刷の現場にも入った。

「まだ結核が十分に治りきっていなかったので、自転車で坂道を上るのは、体にこたえた。夕方になると微熱が出て、体中が汗ばむ。それでも印刷所独特の匂いのなかに帰り、機械の単調な音の繰り返しを耳にすると、なぜか心が和んだ」。

 一年半が過ぎ、池田は体調を崩して退社することになる。「『また元気になったら、いつでもいらっしゃい』

 人の好い黒部さんの、こう言われたときの大きな目が忘れられない」。

 その後、池田の職場は自宅近くの蒲田工業会に移るが、東洋商業には最後まで通い続けた──同校を訪問した折、池田は校長の中西信男らと歓談の花を咲かせた。

 池田が帰った後、在校生たちには「卒業生からの差し入れ」として、たくさんの団子が届けられた。

   新橋と水道橋 ①


 前述の加藤美津子は「すき焼き懇談会」の席上、池田から「東洋商業だね。ぼくの後輩だね。よろしく」と声をかけられた。「『今度、(学校に)行くからね』とも言われました」その約束は二カ月後に実現した(1969年一月三十一日)。

 車が東洋商業の前にとまると、池田はドアを開けるなり、入り口の陰に隠れるようにして待っていた六人ほどの生徒たちに駆け寄った。加藤は「先生が走るところなんて見たことがなくて、本当に驚きました」という。

 その場にいた森田敏男(東京・台東区、地区幹事)は「昼間のクラスだった私も一緒に待ちました。先生は私たちとがっちり握手してくださった」と回想する。


 「新橋と水道橋──この二つの駅は、私の夜学生時代の思い出を刻んでいる」「仕事を終えると、夕刻、急いで水道橋の駅へ向かった。東洋商業(現・東洋高校)は、その駅のそばである」(『池田大作全集』第二一巻)

 池田は東洋商業時代の思い出を生き生きと書き残している。