EIKOの気まぐれ闘病日記 -75ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「すぐ行こう」 ②


 知らせを受けた八人の夜学生たちは、半信半疑のまま雨上がりの中庭に出た。車を降りた池田から「よく来たね。わかっているよ」と声をかけられ、簡素なパイプいすに座った池田の周りを囲み、束の間の「野外懇談会」が始まった。


 清野明子(同、地区婦人部長)は福島の飯館村で生まれた。中学を卒業し、父の出稼ぎ先でもあった静岡で化学繊維工場に就職した。

「社内の女学校に通っていたのですが、正式な高校卒業の資格にはならないので、高校に行くかどうか悩んでいました」。

 両親は元気か。仕事は順調か。池田は一人ひとりの状況を聞いていった。この時の「高校だけは卒業しなさい」という池田の言葉で、清野は働きながら富士宮東高校へ進学することを決意する。

「学校に行って本当によかった。学ぶということはこんなにも楽しいのかと感じました」と振り返る。

 

 望月は「大学に行きたいと思っています」と胸の内を語った。「がんばれ。できれば大学に行きなさい」と池田は励ました。その言葉通り、望月は亜細亜大学へ進み、卒業する。

「つらい時にはあの出会いを思い出しました」。

     「すぐ行こう」 ①


 その日は日曜日だった(一九七三年七月二十九日)。創価学会の富士宮会館(当時)に、定時制の高等部員たちが集まっていた。

「毎月一回、定時制や通信制高校生で学ぶメンバー一〇人ほどが定例会をしていました」と小林鉄男(静岡・富士宮市、地区幹事)が語る。

 

 池田大作は全国から一〇万人が参加する夏季講習会に出席するため、静岡入りしていた。前日は学生部の担当者に「総勘文抄(そうかんもんしょう)」(=日蓮の遺文集)を講義し、この日は学生部の全国幹部会で登壇。音声中継の別会場にも足を運び、数千人の学生たちを激励して回った。

 そのあと池田は、居合わせた幹部に「(最寄の)富士宮会館には今、誰がいるのか」と尋ねた。「ちょうど私たちは会館で『諸法実相抄』(=同じく遺文)の勉強をしていました」(望月)。


 「すぐ行こう」。池田は車に乗った。その際に語った言葉が当時の聖教新聞に報道されている。

「夜学生は苦労している。その尊い心は、私が一番よくわかる。私も夜学び、疲労した体で、昼間の仕事に涙した思い出があるんだもの・・・・・・」。

 夜学時代の池田の大学ノートには、

 英文で大きく「ペンは剣よりも強し」との

 書き込みがある。

 「苦労してでも高校へ、大学へ」──

 池田が幾多の青年を励ましてきたのは、

 「学歴」にとらわれるのではなく、

 「民衆のために働くリーダー」を

 育てたいとの思いからだった。


  夜学生の苦労は私が一番よくわかる


 制服姿の高校生たちが、にぎやかに朝のバスへ乗り込んでいく。望月政樹(静岡・富士市、本部長)は高校時代、作業服を着てそのバスに乗っていた。

「中学時代の同級生は高校に、私は仕事に行くんですが、いつも目立たないように後ろの席に座りました」。


 望月が十五歳の時、父が病に倒れた。中学を卒業した後、製紙会社で働きながら富士市の吉原高校定時制に通った。

 「同級生の皆と同じではないことに引け目を感じていたんですね。でも、あの

日、そういう思いは吹き飛び、希望がわきました」



    母と息子の金メダル ③


 2002年(平成十四年)、何度目かの東洋高校出身者の集いを終えた日、美津子は池田に宛てて、無事終了した旨を報告した。池田からは、「法華経方便品の言葉を贈る」という伝言とともに、

 「悦可衆心(えつかしゅうしん)」

 という揮毫が届いた。

 「人々の心を悦(よろこ)ばせる、という意味です。『あなたが明るければ大丈夫だ』という先生の言葉が蘇りました」

 現在三十八歳の加藤忠明(板橋区、男子地区副リーダー)は、製本印刷会社に二〇年近く勤務し、まじめな仕事ぶりが評価されている。

 池田の励ましを生きる糧にして、働き学んだ人々の物語。さらに追う。



 読者の皆さん、いつも愛読ありがとうございます<m(__)m>


今日で、「友よ強く」──働き学ぶ誇り(2)の連載が終了しました。


次回からは、「友よ強く」──働き学ぶ誇り(3)を連載しますので、よろしくお願


いします <m(__)m>

   母と息子の金メダル ②


 「それまで絶えず心に引っかかっていたんです」。美津子は振り返る。

「先生から言葉をかけられてホッとしました。よし、大丈夫なんだ。負けないぞ、と思えました」。

 忠明は小学校の普通学級に通った。

「三年生の時、忠明が帰ってくると体中に無数のあざがついていました。本人は何も言わないのですが、学校に聞くといじめられていることがわかりました。五年生になると、いじめはなくなりました」。

 美津子はPTA会長も務めた。卒業を間近に控えたある日、美津子は担任教師から思いがけない事実を伝えられた。

 「忠明が五年生の時、同じクラスに不登校の子がいました。じつは忠明は毎日毎日、その子の家に通ってくれたんです。その子はやがて学校に来られるようになりました」

 ああ、この子は人の痛みがわかる人間に育ってくれている。なによりもうれしかった。

 中学も普通学級に通ったが、高校では特別支援学校に切り替えた。それまで普通学級にいたこともあり、いろいろと同級生から頼られる存在になった。そこで忠明はバスケットボールを知る。

 知的障がい者のための「スペシャル・オリンピックス」というスポーツ大会がある。バスケットボールで頭角を現した忠明は1991年(平成三年)の夏、アメリカで開催される国際夏季大会に出場することになった。忠明がアメリカへ出発する直前、池田からの伝言が届いた。


 「旭日の昇るがごとく、力強い人間革命の歴史を築いてください」


 「当時は携帯電話もありませんし、現在のような報道もないので帰国するまで結果がわかりませんでした。無事に帰国してくれるよう祈っていました」。

美津子は成田空港まで忠明を迎えに行った。到着ロビーから一団が出てくると、隣にいた別の子の母親が「加藤君、なにか首にかけていますよ」と教えてくれた。

 少し日焼けした忠明は、美津子の姿を見つけると満面の笑みを浮かべて「やったぜ!」と叫んだ。首にかかっていた金メダルだった。個人競技で見事に優勝を果たしていた。成田空港のロビーで母と息子は抱き合った。