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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 師と共に──「悩みの海」を乗り越える人々 ②


 春休み、東京のいとこの家に立ち寄り、いとこに誘われて学会の座談会に行った。分厚い本を持った五十代の壮年が、十八歳の成澤にしみじみと語ってくれた。

 「私はね、小学校も途中までしか行けなかった。しかし、創価学会に入って、こうして人生の哲学を学べるようになったんだよ」

 その壮年が待っていたのは御書(=日蓮の遺文集)で、どのページにもていねいな書き込みがあった。

「小学校も満足に行けなかった五十を過ぎたおじさんが、これほどまでに向上心に燃える団体って他にあるだろうか。ここで始めなければ悔いを残してしまうんじゃないか」そう思ったのが入会するきっかけになった。

 海員学校には自分よりはるかに優秀な生徒が多く、コンプレックスを強く感じたが、信心を始めてから「成澤が変わった」と噂になり、同級生三人が入会。翌年には父の勝蔵、母のタミをはじめ、きょうだいも相次いで信心を始めた。


 しかし、就職後の「船内でのいじめ」は惨憺たるものだった。「週刊誌の中傷記事をうのみにした上司から罵倒され、わざわざ船員が集まる食堂で騒がれ、殴られ・・・・五○人の乗組員のうち、学会員は私一人でした」。

 日本とアフリカを往復する三カ月の航海中、逃げ場はどこにもない。一人になると、池田の詩集をよく開いた。「悩みの海」の真っただ中で目に飛び込んできたのが「友よ強く」の詩だった。

「誰も助けてくれない狭い船室で、あの『君が信念情熱を、仏はじっとみているぞ』という一節を読んで、結局は自分自身が強くなることだと腹を決めました」。

目の覚めるような思いで「友よ強く」を読み直した。

 成澤は九年間の海上勤務を経て、本社に移動。さらに会社の推薦で東京湾の「水先人会」事務局で働くことになった。「水先人」とは、港湾の安全に欠かせない「船長のアドバイザー」である。

 

 円満退社した後は、水先人の送迎を扱う海運会社で取締役を務めた。地元の要望で、現在、自治会長や保護司なども引き受けている。

 外国航路に従事する学会員のグループ「波涛(はとう会」の結成時からの一員でもある。

「地域に貢献できるのも、創価学会という『校舎なき総合大学』で学べたおかげです。これからが恩返しの時です」と語る。                                                                                       

 師と共に──「悩みの海」を乗り越える人々 ①


 人知れず苦労を重ねる青年を励ます──その池田の思いが凝縮した詩が「友よ強く」であることは、前号で触れた。

 この一篇の詩は苦学生のみならず、周囲の無理解に直面しながらも人生を開こうと必死で闘った、多くの同志の支えになった。

 アフリカに向かう船の甲板からインド洋に飛び込もうと思った時、成澤五郎(横浜市、副区長)は二十歳だった。1967年(昭和四十二年)のことである。

「会社の上司のいじめがひどかった。死んだほうがいいと思いつめるほどの地獄でした」。


成澤は日本有数の総合海運会社に勤め、甲板部に配属された。船の運航やデッキの維持、管理を行う。

 成澤は北海道の南端、津軽海峡に面した知内町出身である。実家は網元(漁業の経営者)だった。中学を卒業後、経済的理由で高校へは進めなかった。一年制の船員養成学校を志したが、受験に失敗。横浜に出て、板金の仕事をしながら定時制の工業高校に通った。

「でも、外国航路の船乗りになりたい、海外に行きたいと思って静岡の国立海員学校(当時)に入り直したんです」。

 読者のみなさん、いつもありがとうございます。<m(__)m>


 一昨日に通夜、昨日葬儀が無事に終わりました。


 叔母さんが亡くなった日に両親が八街の叔母宅に駆けつけた時は、とても綺


麗だったと言っていましたが、葬儀の時も生前よりも綺麗で詰め物も無く、眠っ


ているような死に顔でした。


 お通夜の日に葬儀所に駆けつけると、女性二人の納棺師さんが、髪の毛の


シャンプーしてくれて綺麗にお化粧してくれました。


 お通夜、告別式とも友人葬で行い、沢山の学会の地区の皆さんが参列して


くださいました。


 葬儀の日お棺にお花を入れる時、小さい時からの叔母さんにお世話になった


ことを思い出し、思わず涙が出てしまいました。


 私の父は五人兄姉弟の四番目ですが、昨年兄を亡くし、今度は一番親交の


あった長女の叔母を亡くしたので、やはり寂しそうに見えました。


 皆さんにはご心配をおかけしてしまいすみませんでした。


 少しずつ皆さんの所にお邪魔しているのですが、回りきれていなくてごめんな


さい。


 今度は急に明日から息子のアパートに行くことになってしまい、またブログの


更新が遅れてしまいますがよろしくお願いします。<m(__)m>



    「すぐ行こう」 ③


 「富士宮の『定時制八人会』だね」。白い開襟シャツ姿の池田は、八人の夜学生を連れて会館の庭を散策し、「ここは『みんなの庭』と名づけよう」「今日を祈念して苗木を植えよう」と次々と提案した。のちに一人一本ずつ、合計八本の五葉松が植樹された。彼らは静岡、神奈川、北海道、宮城などて暮らす今も互いに励まし合っている。

 その場に同席した浅見久美子(北海道札幌市、総区副婦人部長)。富士宮市で高等部員の面倒を見ていた。忘れがたいやりとりがある。

 「当時、私は結婚する前で、旧姓は永原なので、その場で『北海道出身の永原です』と自己紹介したんです」。その一言を聞いた池田は間髪いれず「そうか。お姉さんによろしく」と言い、久美子を驚かせた。


 久美子の姉、武田嘉子(北海道岩見沢市、総県婦人部主事)は、かつて夕張炭鉱が創価学会を弾圧した際、先頭に立って闘った女子部の一人だった。

「私はまだ幼かったのであまり記憶がないのですが、先生は私たち家族のことを覚えておられたのです」(浅見久美子)。

 池田の陣頭指揮のもと、天を衝く勢いで炭鉱に立ち向かった「札幌大会」「夕張大会」から十六年。ともに奮闘した同志の名前を、池田は己の脳裏に刻みこんでいた。

 「二十代、三十代はどんなに苦労してもいいんだ。五十代、六十代で勝負だよ」。夜学生たちに言い残し、池田は予定されていた別の懇談会場へ急いだ。