EIKOの気まぐれ闘病日記 -62ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

   「すわりのいい船だ」 ②


 朝採った海苔は、その日のうちに干さなければ質が落ちてしまう。「太陽が昇る前」が勝負だった。

 「最盛期は冬。まだ星のきらめく夜明け前から仕事を手伝った。羽田沖の空が白むにつれ、一つまた一つと星座が消えていく大宇宙の運行は、実に幻想的であった」(2003年1月21日付「聖教新聞」)

 冬の1日は「海苔切り」から始まった。池田は2枚刃の包丁4本を備えた「海苔切り機」を器用に使った。細かく刻んだ海苔は父の子之吉(ねのきち)が水に溶かした。

 次に「海苔付け」である。葦を編んだ「海苔葦」の上に、20センチ四方ほどの大きさの木の枠を置き、升で掬った海苔を流し込む。


 今も東京湾で海苔養殖を行う実形博行(千葉・木更津市、ブロック長)は「午前2時か3時頃、遠くから聞こえるコンコンという音で目が覚めるんです。父親が四角い木枠に升を打ち付けて『海苔付け』をする音でした」と語る。

 そして「海苔干し」である。水を切った海苔葦を、晴れた日は野外に出す。少年時代の池田はこの「海苔干し」もよく手伝った。何千枚もの巨大な「海苔の壁」が、どこまでも続いた。

「たしかに海苔干しは子どもの役目でしたね。つまようじを大きくしたような『目串』を使って、海苔葦を干し場に止める作業もありました」(実形)。

 北風の激しい日は「いいあんばいで」とあいさつを交わした。「寒い」は禁句だった。

「いい海苔は、凍てつく北風がつくってくれる」と池田は記している。寒風が強いほど海苔の色つやがよくなると言われていた。

    「すわりのいい船だ」 ①


 農漁業に携わる人々と池田の交流史を辿ると、池田の少年時代の原風景──「海」に行き着く。


 「幼き日

   母が語りし

      ロマンかな」


 1984年(昭和五十九年)に発刊された『羽田の漁師』という絵本に、池田が揮毫した句である。脇に「故郷の思い出」と書き加えた。創価大学の「池田文庫」の一冊として、これまでも展示されてきた。

 海に生きる人々に、池田は人一倍の思い入れがある。その思いに間近に触れた一人が、北海道の学会草創期を支えた船大工、佐賀久五郎である。

 北海道・駒ヶ岳を望む学会の函館研修道場。この地で池田は周囲の求めに応じ、小さな船に乗ったことがある(1978年六月二十二日)。それは佐賀久五郎が建造したものだった。大正生まれの久五郎は、小学校を出るとすぐ奉公に出された。オホーツク海やベーリング海に出る木造船を作り続けた。池田の乗った船は、この道50年の久五郎が退職記念に手がけた一艘だった。


 「父は長年、『先生に一度、自分の船に乗ってほしい』と願っていました」(長男の久吉。函館市、副ブロック長)。夢がかなったその日、久五郎の船を、息子の久吉が操縦した。湖岸に立った久五郎は、池田を乗せた小舟が、風の拭き抜ける大沼を滑るように走る光景に目を細めた。

 湖上でのひとときの憩いを終え、岸に戻った。池田は船から降りて、おもむろに「船縁」を両手でつかんだ。何度か船を揺らした。「『すわり』のいい船だね」と池田から褒められ、そばにいた久五郎は驚いた。

 そのなにげない池田のしぐさは、「漁師が船の善し悪しを調べるやり方と同じ」だったのだ。

   満州の死線を越えて ②


 「この家を何年に建てましたか?」。池田の問いに辻村が「昭和二十三年です」と答えた。「じゃあ私が入信した年だね。ずいぶん苦労なさったでしょう」。

温室から仏間に移り、懇談が続いている。「田舎の家はいいなあ」。池田はしげしげと土間や天井を眺めた。

 辻村が五十九歳と知り、池田は「まだまだ若いね」と励ました。さらに「ここは本当に良い所だ。もっと土地を広げたほうがいい。手狭でしょう?」と率直に述べた。

 「皆さんのことは生涯忘れません」。池田はそう言い残し、香川の地を後にした。

「あの日、先生はその場で、できあがったばかりの詩集『青年の譜』の見返しに『爛漫と 功徳の花あり 金の家』と筆を走らせ、両親に手渡されました」(娘の馬場京子。東京・日野市、婦人部副本部長)。

 学会に「農村部」が誕生する一年前のことだった(現在は「農漁村部」に発展している)。こうした一人ひとりへの「励ましの糸」が、やがて農漁村の同志たちをつなぎ、「地域貢献のネットワーク」を紡ぎ出していく。

 

 辻村夫妻はその後、地元の学会のリーダーとして弘教に歩きながら、営農に情熱を燃やし続けた。息子の彰教もアメリカで二年間の農業研修を受け、両親を支えた。県立高校の農業研修生の受け入れ先にも選ばれた。研修生たちとの交流は今も続いている。

 「花を作っていたから池田先生が来てくださった。だから私は一生涯、花を作り、花の中で死んでいきたい」。それが辻村の口癖だった。大輪の菊を抱えて寝台特急で上京した際、信濃町でばったり池田と出会ったこともある。池田は急ぐ足を止めて「よく来たね」と辻村の両手を握った。

「父は九五年の生涯でしたが、ふだん言っていたとおり、亡くなる三日前まで農作業をしていました」(彰教)。

 妻の喜三枝も最晩年まで紫陽花やシクラメンを育て続けた。年末には地域の一軒一軒に丹精を凝らした花々を配り、笑顔の花を咲かせた。1993年(平成5年)、義理の娘の辻村厚子は、香川を訪れた池田と懇談する機会があった。

「いつも真っ白いきれいな花を学会本部で見せていただいたね」。池田と香峯子は感謝の言葉を繰り返した。


  満州の死線を越えて ①


 辻村清一は1913年(大正二年)、農家の二男として生まれた。戦争中、農業指導員として満州(現・中国東北部)に渡り、長崎出身と喜三枝と結婚した。一男一女に恵まれたが、敗戦によって家族は無惨に引き裂かれた。

 戦車連隊に属していた辻村はソ連軍に捕まり、モンゴルの首都ウランバートルで二年間の強制労働に苦しめられた。今も使われているモンゴルの政府庁舎やオペラ劇場は、この時の日本人捕虜が建てたものである。抑留された日本人一万2000人のうち、1600人が命を落とした。辻村の手記には「尊い青春10年間は、まさに波瀾万丈、死線を越えての苦闘の連続であった。数多くの戦友達は草原の露と消えていった。」と記されている。

 

 いっぽう、幼子二人を抱えて満州に取り残された妻の喜三枝も過酷な日々を送った。「女はソ連兵に襲われる」と噂され、長い黒髪を切り落とし、顔に墨を塗りたくって逃げた。それでも肌着一枚を残して身ぐるみすべてを暴徒に奪われた。

 幼子たちは深刻な栄養失調に陥った。引き揚げ船にたどりつく前に、長男の敏郎は五歳で、長女の照子は二歳で息をひきとった。胸の裂かれるような思いで、二人の遺骸をハルピンの地に埋めた。

「義母は晩年まで、夜中にうなされることがあり、『逃げる夢を見た。怖かった』と話していました」(辻村厚子、四国副婦人部長)。

 喜三枝は1961年(昭和三十六年)、花屋をしていた姉、小峯美津代の勧めで創価学会に入った。息子の彰教は「私が寝る時も母はよく題目をあげていた。朝起きたらもう仏間に座っていた」と振り返る。子ども心に「一体いつ寝ているのか」と不思議に思った。


 モンゴルから無事に復員した辻村は、畑でキュウリやトマトづくりに励んだが、やがて電照菊などの花卉栽培に切り替える。妻の喜三枝から学会の信仰体験を聞かされても「そんなことあるかい」「座談会?行かん、行かん」と笑って反対していたが、六年後に信心を始めた。

 県下の農家で初めてガラスの温室を導入し、地域の繁栄のためにも試行錯誤を重ねた。同業仲間で組合を作り、東京や大阪に出荷し、新しい市場を開拓する牽引役になった。我が家に池田を迎えた頃にはガラス温室四棟、ビニールハウス三棟を構えるまでになっていた。


世界の食料危機が叫ばれた1973年、


創価学会に「農村部」(現・農漁光部)が誕生。


農林漁業に汗を流して社会を支える友を


池田は励まし、人知れぬ労苦をたたえる。


その胸には、北風荒ぶ冬の海にも出て


家業の海苔づくりを手伝った


少年時代の原風景があった。


生命を尊ぶ文化の礎は農漁村にこそある──


「地域発の時代」を開く群像を追う。


 辻村清一は花づくり一筋の農家だった。その日は慣れない背広に身を包み、池田大作の到着を今か今かと持っていた。

 香川の綾歌町(当時)、1972年(昭和四十七年)六月十九日──

 「父は事前に『訪問するかもしれない』と連絡を受けていたそうです」。息子の彰教(丸亀市、副支部長)が語る。


 池田を乗せた車は、香川から高知へと向かう国道32号を南下した。辻村の花卉農園は、国道から脇に入った県道沿いにある。ゆるやかな起伏に富んだ大地が讃岐山脈へと続き、ため池が随所に設けられている。

 四日間の四国指導の真っ最中だった。池田は前日、香川・高松市の屋島体育館で6000人との記念撮影に臨み、徳島大学会と香川大学会の結成式や、青年たちとの懇談にも出席した。

 「お忙しいところお邪魔します」。

正午前、池田の声が響いた。辻村は準備していたとおり、まず自宅に案内しようとした。

「しっかり大掃除していたそうですから(笑)でも先生は、すたすたと花の温室の方へ向かわれたんです」(辻村彰教)。

 「入ってもいいかな」。辻村夫妻とともにガラスの温室の中を歩いた。辻村と妻の貴三枝が手塩にかけ、胸元あたりまで伸びた菊の黄色、カーネーションの深紅、グラジオラスのオレンジが、緑の葉によく映えていた。

 「花を切ってみてください」と辻村は勧めた。ハサミを手渡され、「切っていいのかい? 温室できれいなお花を切るなんて初めてだよ」と池田。辻村のアドバイスに従い、池田はカーネーションやグラジオラスを慎重に切って妻の香峯子に手渡した。香峯子は両手で色とりどりの花々を抱えた。

「カーネーションは、五月の『母の日』で出荷を終えて翌年の準備に入ります。しかしあの年、父は『もしかしたら池田先生に見てもらう機会があるかもしれない』と、一部を出荷せずに残しておいたんです」。