EIKOの気まぐれ闘病日記 -63ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 読者の皆さん、いつもありがとうございます。

  <m(__)m>


 現在、民衆こそ王者ー池田大作とその時代を連載


していますが、今回からは「地域の灯台」-農漁業


生きるシリーズを連載することになりました。


 どうぞよろしくお願いします。<m(__)m>

 読者の皆さん、いつもありがとうございます。


 今日で、民衆こそ王者ー池田大作とその時代


 「友よ強く」─働き学ぶ誇りの連載が終了しました。


 ご愛読ありがとうございました。<m(__)m>


 次回からの連載はまだ未定です。


 決まったらお知らせしますので、よろしくお願い


 します。 <m(__)m>

    勝つんだよ ②


 半年後、杉本はこれまでの人生を綴り、定時制、通信制高校の生活体験発表大会に応募する。杉本の弁論は大阪の府会議長賞をとり、NHKラジオで全国に放送された。

 二年後、猛勉強の末、大阪産業大学の二部に進んだ。学費は母と離婚した父が工面してくれた。

「7年かかりましたが、関西飛翔会(学生部の大学二部のグループ)の仲間の励ましもあり、卒業できました。就職活動では50社ほど面接を受け、富士通エフ・アイ・ビーに採用が決まったのですが、採用理由は『明るい人柄』だったそうです」と笑う。池田との出会いから10年目の春だった。


 杉本は傷がいとともに生きる自らの体験をもとに、各地の小中学校で講演してきた。2001年(平成十三年)、その功績が認められ、会社から「特別社会貢献賞」を受賞する。記念の会食の場には、社長や専務ら最高幹部も列席した。

 「いつか社長さんとご飯を食べることもある。ちゃんとお箸を使えるようにならんとあかんで」──かつて自分の心の扉を開いてくれた仲間の励ましを思い出した。「その通りになったよ」。杉本は箸をにぎったまま、晴れの席でぽろぽろと涙をこぼした。

 池田は杉本の母、初枝に一首の和歌を贈っている。


  宿命を

  のりこえ勝ちこえ

     不朽なる

  我が家は勝利の

    記念の城かな


 「友よ強く」の作曲を手がけた今城洋一は、池田の前で曲が発表された日(1972年2月20日)、裏方の役員をしていた。池田はこの日、今城に声をかけ、「友よ強く」の詩について「十九歳で夜学に通いながら、皇居の前を自転車で通った時、作ったものです」と語っている。

 昭和二十年代から、学会の発展とともに多くの人を鼓舞してきた「友よ強く」。

二十一世紀に入り、中国でも翻訳された。「朋友(ポンヨウ、你要(ニーヤオ)堅強(ジェンチャン)」というタイトルで、日本語学習の参考書に収録されている。

    勝つんだよ ①


 杉本は「大学に行きたい」と望むようになった。

「高等部の仲間は『俺たちが手分けして勉強を教えてやる』と言ってくれました。冗談かと思いましたが、本当に毎日、交替で教えてくれました」(杉本)。

杉本は養護学校を中退し、二度目の挑戦で府立高津高校の定時制に合格する。

 「翌年、両親が離婚しました。母を支えるために働かねばならなくなり、新聞配達を始めました」。その時も高等部の仲間が杉本の体力づくりを手伝った。朝の五時半からカエル跳びや腕立て伏せ、ランニングを繰り返した。大阪城近くの坂で自転車の練習を重ね、何度も傷だらけになった。


 高校に入ったものの、着替えも、新聞配達も、授業のノートも、何をするにも人の二、三倍は時間がかかる。大学など無理だと絶望した。

「新聞配達の途中でマンションを見上げて、あそこから飛び降りたら楽やろなあ、と思ったこともありました」。

 二十歳の時、神奈川で就職した高等部の先輩の家に遊びに行った。

「神奈川に大きな会館ができた。行ってみないか」と誘われた。

「昭和五十五年の三月でした。神奈川文化会館へ行き、一階の出版コーナーで本を読んでいると、目の前に池田先生が来られたんです」。


 池田を囲む何人かの輪ができた。

「足のすくむ思いでしたが、その輪の中に入りました」。池田は、一人ずつ近況を聞き、気迫のこもった声で語りかけていった。杉本は「これまでの苦しみや悩みを全部ぶつけよう」と思った。「でも緊張してしまって、先生、と口にするのが精一杯でした」。

 池田は杉本の目を正面から見すえ、「負けるんじゃない。負けるんじゃないよ」と二度繰り返した。そして別れ際に「勝つんだよ」と言い残し、その場を後にした。

 「あの一度の出会いがどれほど大きな支えになったか・・・・。先生は会長を辞任されて一年足らずでした。その労苦と比べたら、俺の障がいも障がいではない、と感じたんです」

   一緒に治そう ②


 杉本博道は大阪の東成区で生まれた。予定日より三カ月も早い出産で、800グラムの超未熟児だった。少年時代、「こんにゃく」「宇宙人」と呼ばれ、いじめられた。「『バカにするな』と怒鳴ると、彼らは私の真似をして変な歩き方で逃げました」。

 母の初枝は、わが子が脳性小児麻痺だとわかるとショックで涙も出なかった。「病気に効く」と聞けばどんな宗教にも手を出した。「早く出てきたこの子が悪いんや」と思うようにした。

 「井口妙子さんという婦人部の方が、母に『この子が悪いんとちがうで。この子が生まれて苦しんでいるのはあなたでしょう。だからあなたの宿命なんやで』と言ってくださり、母は初めてぽろぽろと涙を流したそうです。私が三歳の時でした」。

 この一言で初枝は信心を始める。1963年(昭和三十八年)の九月だった。

 杉本は養護学校で歩く練習をした。外で歩けば、電柱や塀にぶつかり、人の視線が突き刺さった。強い人間不信に陥り、学校から帰ると部屋に引きこもるようになった。

 そのころ、地元の高等部員たちが杉本宅に通った。しかし16歳の杉本は、彼らを無下に追い返した。

「バケツ一杯の水をぶちまけたこともありました。それでも毎週、家に来てくれました」。

 巣木本家の御本尊の前の畳は、小さく窪んでいた。杉本の母、初枝が座ると、その窪みにピッタリあった。初枝は弘教に歩くと「あんたの子がまともになったら学会にはいるわ」「その子が治ったらやったるわ」と言われ、塩をまかれることもあった。息子が世の中に心を開くよう、誰よりも祈ったのは母だった。めげずに通ってくれる高等部員たちを「よく来てくれましたね」と笑顔で出迎え、深々と頭を下げた。畳の窪みは、一家和楽を願う祈りの深さのように見えた。

 「何度も通ってくれた仲間の『俺たちと一緒に病気を治そうや』という一言が、私を変えました」と杉本は語る。憐みも同情もたくさん受けてきた。しかし「一緒に治そう」と言ってくれる人はいなかった。

「生まれて初めて、母親以外に信じられる人ができました」。

 杉本は箸の持ち方から教わった。

「いい会社に行って、お母さんを養えるようになるんや」と励まされた。「学校に行くために、朝の支度に二時間ほどかかる体です。夢物語に聞こえました。でも彼らは本気で関わってくれた」と振り返る。そのころ高等部の会合で、「全員が大学へ」という池田の指導を知る。