母との再会 ②
どうすれば進学できるか悩み、永島は新聞奨学生の道を選んだ。拓殖大学に進み、神田明神下の新聞配達所に住んだ。朝の三時半に起きて折り込みを済ませ、五時ごろから御茶ノ水や秋葉原を回った。
「当時の千代田区の学生部は、私と似たような境遇の地方出身者が多く、よく皆で『友よ強く』を歌いました。あの歌は私たちの心の柱でした」。
1976年(昭和五十一年)、学生部の会合の後、ある先輩と懇談した時のことである。「『お母さんは?』と尋ねられ、それまで胸にため込んでいた母への恨みを吐き出しました」。
その先輩は、永島を厳しく諭した。──親を愛せない人間が、どうして他人を愛し、救うことができるのか。どんな理由があるにせよ、君のお母さんは世界に一人しかいない。捜して、見つけて、会うんだ。それが君の折伏だよ──
そのとき永島は「涙が止まらなかった」と振り返る。母は、探し始めて二週間で見つかった。神奈川の親戚宅に身を寄せていた。
13年ぶりに会った。もともと小柄な母の体が、さらに縮んだように見えた。
「お前のことは、一日だって忘れたことはなかったよ」と母は言った。さらに「なぜ来てくれたの?」と尋ねられ、永島は「創価学会に入ったからだよ」と答えた。
驚いた母は「じつは私も学会に入っているんだよ」と言った。二人は言葉を失い、見つめ合った。
それから永島は毎週末、母に会いに行った。父の看病や慣れないパートの仕事に疲れきったこと。なにより親戚づきあいの不和と葛藤に耐えられなかったこと。「いつか子どもを引き取りたい」と願い、再婚もしなかったこと。思いあまって息子の家や学校を訪ねたこと・・・・・13年の空白が埋まっていった。
「会うたびに『すまないね』と言い続けた母の最期も看取ることができました」。
永島は拓殖大学を卒業した後、通信教育で小学校の教員免許をとり、山口に赴任。学会男子部では山口県男子部長としても活躍した。2003年から四年間、文科省の派遣でオーストラリアの補習授業校の校長を務め、今は下関市内で小学校長をしている。