EIKOの気まぐれ闘病日記 -64ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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     「一緒に治そう」 ①


 池田は、かつて「毎日新聞」に寄せられたエッセーで、一人の夜学生の青春に触れている(2009年三月一日付)。

 「私が見つめてきた関西出身の青年は、先天性の脳性小児マヒを乗り越えながら、毎日新聞を配達した。その陰には、不自由な体でも自転車に乗れるよう、一緒に傷だらけになって練習してくれた仲間がいた」

 「大学を卒業し、就職も勝ち取って、今、誓い通りの社会貢献の人生を、良き家族と朗らかに歩んでいる。いかなる逆境も突破しゆく不屈の活力こそ、青年の特権ではあるまいか」


 この「関西出身の青年」、杉本博道(神奈川・川崎市、副支部長)は、記事を読み、池田に感謝の手紙を書いた。苦学を重ねた杉本のドラマは、これまで何度も全国紙で紹介され、文部省選定のドラマにもなっている。


 池田から杉本のもとに、君を陰で支えてくれた仲間にも、感謝の思い伝えてほしいと伝言が届いた。


     母との再会 ②


 どうすれば進学できるか悩み、永島は新聞奨学生の道を選んだ。拓殖大学に進み、神田明神下の新聞配達所に住んだ。朝の三時半に起きて折り込みを済ませ、五時ごろから御茶ノ水や秋葉原を回った。

「当時の千代田区の学生部は、私と似たような境遇の地方出身者が多く、よく皆で『友よ強く』を歌いました。あの歌は私たちの心の柱でした」。

 1976年(昭和五十一年)、学生部の会合の後、ある先輩と懇談した時のことである。「『お母さんは?』と尋ねられ、それまで胸にため込んでいた母への恨みを吐き出しました」。

 その先輩は、永島を厳しく諭した。──親を愛せない人間が、どうして他人を愛し、救うことができるのか。どんな理由があるにせよ、君のお母さんは世界に一人しかいない。捜して、見つけて、会うんだ。それが君の折伏だよ──


 そのとき永島は「涙が止まらなかった」と振り返る。母は、探し始めて二週間で見つかった。神奈川の親戚宅に身を寄せていた。

 13年ぶりに会った。もともと小柄な母の体が、さらに縮んだように見えた。

「お前のことは、一日だって忘れたことはなかったよ」と母は言った。さらに「なぜ来てくれたの?」と尋ねられ、永島は「創価学会に入ったからだよ」と答えた。

 驚いた母は「じつは私も学会に入っているんだよ」と言った。二人は言葉を失い、見つめ合った。

 それから永島は毎週末、母に会いに行った。父の看病や慣れないパートの仕事に疲れきったこと。なにより親戚づきあいの不和と葛藤に耐えられなかったこと。「いつか子どもを引き取りたい」と願い、再婚もしなかったこと。思いあまって息子の家や学校を訪ねたこと・・・・・13年の空白が埋まっていった。

「会うたびに『すまないね』と言い続けた母の最期も看取ることができました」。


 永島は拓殖大学を卒業した後、通信教育で小学校の教員免許をとり、山口に赴任。学会男子部では山口県男子部長としても活躍した。2003年から四年間、文科省の派遣でオーストラリアの補習授業校の校長を務め、今は下関市内で小学校長をしている。


    母との再会 ①


 「友よ強く」編を終えるにあたり、向学の友が母とともに歩んだ物語を二つ紹介しておきたい。


 永島昭雄(下関市、副総県長)が小学四年の春、母は「パーマをかけに行くね」と家を出て行ったきり、二度と戻ってこなかった。

「母は後妻でした。父は明治四十五年生まれ、母は昭和四年生まれで、親戚中から結婚を反対され、結婚後も気苦労が絶えなかったようです」。

 優しかった母がなぜ出て行ったのか。理解できなかった。恨みだけが残った。父は理容師だったが、病気で寝たきりになっていた。四年後、永島が中学二年の時に亡くなった。永島は住んでいた横須賀から兄のいる茨城に移り住み、日立製作所で働きながら通信制の高校で学んだ。


 学会に入ったのは1973年(昭和四十八年)、十九歳の時だった。職場の先輩から「君にはこの信心で幸せになってほしい。今の苦しみは必ず君の幸福の礎になる」と言われ、心動かされた。

「先生の『全員が大学へ』という指導を知ったのもそのころです。あと時に人生が変わりました」。

    「柱」の一字を胸に ③


 二年後、初めて挑んだ短答式試験では歯が立たなかった。不眠症に悩まされた。父の五郎から励ましの手紙が届いた。

「妹が、行方知れずだった父と連絡をとってくれていたんです」。

恩讐を超えた家族のつながりが、生まれようとしていた。

 勉強を始めて三年目の秋──二度目の短答式試験、論文試験を突破し、口述試験の結果発表の日に上京した。

 土砂降りの雨の中、東京に住んでいた父の五郎と二人で、霞が関の法務省に向かった。掲示板に息子の番号を見つけた五郎は、雨に打たれながら泣いた。

 池田が加藤に「柱」の色紙を贈ってから、10年が過ぎていた。

 「池田先生という希有の師匠に出会えたからこそ、今の私があります」。

加藤は三重の津に弁護士事務所を開き、県の弁護士会会長、母子寡婦福祉連合会の顧問なども務めてきた。

「家事問題が専門です。家庭や子どもをめぐる人生の選択を手助けしていきたい」と語る。

 「今父が近くの施設で暮らしていて、今日もこれから母と一緒に訪問します。両親が再びなごやかに過ごせる場を作れたことがうれしいです」。そう言って加藤は微笑んだ。