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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「柱」の一字を胸に ②


 小さな町の鉄工所で、一日に何トンもの鉄材を運び、トラックで完成品を納品して回った。ある日、顔見知りになった近所の壮年から「会社を解雇された。再就職で苦労している」と悩みを聞かされた。

「あんたはまだ若いがこれだけは知っておけ。この世の中は法律を知らんばかりにえらい目にあう。この俺がいい例だ」。

 無知ゆえに泣き寝入りさせられたこの壮年との会話が、一つの転機になった。男子部の先輩からは、池田や草創の学会員が戦った「夕張炭労事件」「大阪事件」の歴史も聞いた。

 鉄工所で働き始めて六年が過ぎた。末の弟が社会人として巣立つことが決まった。二十四歳の加藤は職場を辞め、司法試験を志し、夜間の法律専門学校に通い始める。

「お世話になっていた壮年部の早川四男さんに相談しました。早川さんは敗戦後、司法試験に挫折した経験があり、最初は大反対されました。しかし最終的に『初志貫徹』『信心根本の苦労こそ生かされる』と背中を押してくれました」。


 国家試験の最難関に、ゼロから、しかも独学で挑む──周囲には無謀な冒険だと映った。大学に行っていない加藤には、そもそも受験資格すらない。

「司法試験を目指したのは、やはり言論問題をはじめ、権力によって庶民が苦しめられる姿に接したことと無縁ではありません」と振り返る。

 朝の四時から四時間かけて牛乳を配達し、あとは体力の限界まで猛勉強を続けた。受験資格は通信教育で取得した。

「専門学校では司法試験用の授業はありません。『民法は我妻(=我妻栄)の本が一番らしい』などと聞きかじった情報をもとに、本当に初歩から始めました」。


    「柱」の一字を胸に ①


 言論問題の渦中、二十歳を過ぎたばかりの加藤謙一(三重・津市、副本部長)は、名古屋市内の鉄工所で働き、結核で倒れた母と三人の弟妹を養っていた。

 加藤の母、きくのが学会と出あったのは1961年(昭和三十六年)の春だった。

「当時、父には母以外の女性がおり、家の中は争いが絶えず、家計も火の車でした」。

 父の五郎が家を飛び出したのは、加藤が瑞陵高校二年の夏だった。毎日の食費にも困るようになり、きくのは過労がたたって結核を発症してしまう。弟や妹の授業参観は、しばしば加藤が学校を休み、両親の代わりに参加した。

 六六年(昭和四十一年)の一月、高等部の会合に行く電車賃が足りず、物置から壊れた自転車を引っ張りだした。

「どうしても参加したかった」という加藤は、自転車を直し、当時住んでいた愛知の豊明市から岡崎市の会場まで、20キロの道を三時間かけてたどり着いた。


 つぎはぎだらけのシャツで、ポケットはほころびていた。縫うための糸を買うお金すらなかった。皆で学会歌を歌う時、加藤は参加者の前に立ち、今日は電車賃がなく、欠席しようと思っていたこと、母から「今日だけは学会歌の指揮をとらないでくれ。学生服を脱いだらみっともないから」と言われたことを赤裸々に話し、力一杯、学会歌の指揮をとった。

 しばらくして、加藤の家に一枚の色紙が届いた。毛筆で力強く、

  「柱」

 の一文字が記されていた。岡崎での会合の様子を伝え聞いた池田が、したためて贈ったものだった。

 それを目にした瞬間の驚きを加藤は「色紙がまるで『ビューン!』と音を立てて飛んできたように感じた」と振り返る。

「この色紙が私と家族を支えてくれました。一家の柱たれ、社会の柱たれ、という意味でしょうか。あの日のことはいつ思い出しても・・・・・」目元を赤らめ、絶句した。

 高校では生徒会長を務め、成績も常にトップクラスだったが、三年になるころには学費も交通費も払えなくなり、中退を申し出た。担任教師が学費を工面してくれた。卒業式では卒業生を代表して答辞を読み、「今日より一介の行員としてスタートしますが、必ずや大成して報告に参ります」と宣言した。

  一人の老婆に手を携えられる人たれ ②


 阪井一志(愛知・岡崎市、副本部長)は、学生時代に聞いた「諸君は一人の老婆に手を携えていける人になりなさい」という池田の一言が心に残っているという。

「市議を20年務めましたが、その原点となった言葉です」。

 長崎の船大工の家に生まれ、定時制高校、愛知大学二部と、家族からの援助は一切受けずに自分の稼ぎだけで通いきった。

「ふと『昼の学校に行きたかった』と思う時がありましたが、そんな時は『友よ強く』の詩に支えられました」。


 中本好昭(副会長)は「池田先生との最初の『出会い』は高校の通学電車で読んだ本です」と語る。「北海道を開拓した依田勉三など、苦労を重ねた偉人の物語を先生が紹介されていた。あの読書が日々の支えでした」。

 中本は高校に入学する直前、父を失った。父は脳溢血で長く臥せっていた。

「母はその五年前、交通事故で亡くなっていました。母の死後、しばらくして一家で学会に入りました」。

兄は遠方の高校に通い、弟は幼稚園だったので、朝晩の食事、五右衛門風呂の準備から父の世話まで、家事のほとんどを中学生の中本がやった。

 工業高校を卒業してすぐに就職したが、「全員、大学へ」という池田の指導が頭から離れなかった。働き始めて二年目、愛知工業大学二部に進み、電気工学を学んだ。

 1971年(昭和四十六年)、聖教新聞が名古屋への新聞ファクシミリを導入した際、専門知識を請われて愛知支局で働き始めた。翌年、池田との忘れられない出会いがあった。


 「岐阜本部の落成式(72年三月十一日)です。会合がすべて終わった後、大勢の運営役員が大広間に集まりました。先生は題目三唱をした後、『役員は何人?』と聞かれました。

 側にいた幹部が、今いる人数を答えた。池田はさらに「場外で役員をしてくれた人は?」「トイレの飾りつけをしてくれた人は?」と、「その場にいない人たち」の人数を次々に尋ね、激励の記念品を託した。そしてその場にいた幹部にたいして「全部、君たちが報告してくれた人たちだよ。陰の人を大事にすれば、学会は発展するんだよ」と言い添えた。

「あの会合に携わったスタッフの役割を全部、先生は心にとどめておられた。一回一回の会合に臨まれる集中力に驚嘆しました。あの『陰の人を大事に』という身をもっての一言が、生涯の指針です」中本は振り返る。


  一人の老婆に手を携えられる人たれ ①


 「われわれが命をかけて信奉するものを侮辱された。熱心に真面目にやっている庶民が愚弄された、そういう仕打ちにあえば、怒りたくなるのは当然でしょう」(『戦後五十年の生き証人」が語る』中央公論社)──こう池田が語る出来事が、「四権分立」提言の半年後に起きた。学会が出版活動を妨害しているとマスコミが喧伝した、いわゆる「言論・出版問題」である(単行本第一巻で詳述)。

 二十世紀を代表する知識人の加藤周一は、マスコミが国の大きな問題に目をつぶりながら、「言論の自由」をふりかざして庶民の団体を執拗なまでに攻撃する姿勢を糾弾し、”そんなジャーナリズムにとって、「言論の自由」など、「言い逃れのための道具」に過ぎないではないか”と痛烈な批判を加えている(『丁丑公論私記』)。

 特に中部地方は、国会で池田の証人尋問を要求した代議士の地盤でもあり、学会員に対する非難、中傷が大きかった。その中でも池田の指針を胸に、働き学ぶ人々がいた。


 名古屋駅の近くに税理士事務所を構える三浦秀樹(名古屋市、区本部長)は、下駄の鼻緒職人の家に生まれた。

「『全員が大学へ』の指導は知っていましたが、自分は学力的にも金銭的にも無理だと決めていました」と語る。商業高校を卒業し、税理士事務所で働き始めたが、「税理士になるなら大学へ行くべきだ」と勧められ、名城大学の二部にすべり込んだ。

 誰よりも喜んだのは母親だった。座談会で「大学へ、という先生の指導を忘れたことはなかった」「ずっと祈っていました」と話す母の姿が、今でも三浦の胸に焼きついている。

 「そのころ言論問題が起きて、近所の人からもずいぶん責められました。それまでは、いい加減なことを活字にするマスコミもあるとは知らなかった」

 

 岸田美登子(愛知・尾張旭市、支部副婦人部長)は佐賀の漁師町で育った。

「経済苦と父の酒乱が、わが家の入会のきっかけです。中学を卒業した後、愛知の紡績会社で働きながら定時制高校に通いました」。

 寮の部屋には「友よ強く」の詩を貼った。「名城大学の二部に入学した年、アパートで勉強しながらラジオを聞いていると何度も学会に関する無認識の批判が流れました。あの悔しさは忘れられません。」。

岸田は教育者を目指し、中学・高校の社会科の免許を得た後、さらに通信教育で小学校の免許も取得した。現在は小学校の教員を定年退職し、非常勤で教えている。

    病魔を越えて ②


 「必ず2001年の五月三日まで生きてみせる」。そう決めて祈った。

 九州文化会館から「いま先生が福岡に来られています。記念の会合あるのですが、来られますか」と電話があったのは、がんを切除する大手術から一年ほど経った冬のことだった。美容師の男子部員に髪を整えてもらい、会場に向かった。

 指導を終えた池田は、すぐ出口には向かわず、参加者に声をかけて回った。碇の座っていた席は、会場の一番後方だった。

 「あの日、家に帰ってきた夫は『がんのことなんか一言も言っていないのに、先生は私の背中の傷あとを何度もさすってくださった。不思議だなあ』としきりに言っていました」(碇孝枝)。

 碇は生きて2001年を迎えた。五月三日は家族で学会本部を見学した。息子たちに両脇を支えてもらい、最も苦しい時に思い出を刻んだ街並みを歩いた。二カ月後、碇は静かに息をひきとった。五十歳だった。この年、長男の光俊は東大を卒業した。父の後を継ぎ、公認会計士として福岡で働いている。