一人の老婆に手を携えられる人たれ ②
阪井一志(愛知・岡崎市、副本部長)は、学生時代に聞いた「諸君は一人の老婆に手を携えていける人になりなさい」という池田の一言が心に残っているという。
「市議を20年務めましたが、その原点となった言葉です」。
長崎の船大工の家に生まれ、定時制高校、愛知大学二部と、家族からの援助は一切受けずに自分の稼ぎだけで通いきった。
「ふと『昼の学校に行きたかった』と思う時がありましたが、そんな時は『友よ強く』の詩に支えられました」。
中本好昭(副会長)は「池田先生との最初の『出会い』は高校の通学電車で読んだ本です」と語る。「北海道を開拓した依田勉三など、苦労を重ねた偉人の物語を先生が紹介されていた。あの読書が日々の支えでした」。
中本は高校に入学する直前、父を失った。父は脳溢血で長く臥せっていた。
「母はその五年前、交通事故で亡くなっていました。母の死後、しばらくして一家で学会に入りました」。
兄は遠方の高校に通い、弟は幼稚園だったので、朝晩の食事、五右衛門風呂の準備から父の世話まで、家事のほとんどを中学生の中本がやった。
工業高校を卒業してすぐに就職したが、「全員、大学へ」という池田の指導が頭から離れなかった。働き始めて二年目、愛知工業大学二部に進み、電気工学を学んだ。
1971年(昭和四十六年)、聖教新聞が名古屋への新聞ファクシミリを導入した際、専門知識を請われて愛知支局で働き始めた。翌年、池田との忘れられない出会いがあった。
「岐阜本部の落成式(72年三月十一日)です。会合がすべて終わった後、大勢の運営役員が大広間に集まりました。先生は題目三唱をした後、『役員は何人?』と聞かれました。
側にいた幹部が、今いる人数を答えた。池田はさらに「場外で役員をしてくれた人は?」「トイレの飾りつけをしてくれた人は?」と、「その場にいない人たち」の人数を次々に尋ね、激励の記念品を託した。そしてその場にいた幹部にたいして「全部、君たちが報告してくれた人たちだよ。陰の人を大事にすれば、学会は発展するんだよ」と言い添えた。
「あの会合に携わったスタッフの役割を全部、先生は心にとどめておられた。一回一回の会合に臨まれる集中力に驚嘆しました。あの『陰の人を大事に』という身をもっての一言が、生涯の指針です」中本は振り返る。