「柱」の一字を胸に ①
言論問題の渦中、二十歳を過ぎたばかりの加藤謙一(三重・津市、副本部長)は、名古屋市内の鉄工所で働き、結核で倒れた母と三人の弟妹を養っていた。
加藤の母、きくのが学会と出あったのは1961年(昭和三十六年)の春だった。
「当時、父には母以外の女性がおり、家の中は争いが絶えず、家計も火の車でした」。
父の五郎が家を飛び出したのは、加藤が瑞陵高校二年の夏だった。毎日の食費にも困るようになり、きくのは過労がたたって結核を発症してしまう。弟や妹の授業参観は、しばしば加藤が学校を休み、両親の代わりに参加した。
六六年(昭和四十一年)の一月、高等部の会合に行く電車賃が足りず、物置から壊れた自転車を引っ張りだした。
「どうしても参加したかった」という加藤は、自転車を直し、当時住んでいた愛知の豊明市から岡崎市の会場まで、20キロの道を三時間かけてたどり着いた。
つぎはぎだらけのシャツで、ポケットはほころびていた。縫うための糸を買うお金すらなかった。皆で学会歌を歌う時、加藤は参加者の前に立ち、今日は電車賃がなく、欠席しようと思っていたこと、母から「今日だけは学会歌の指揮をとらないでくれ。学生服を脱いだらみっともないから」と言われたことを赤裸々に話し、力一杯、学会歌の指揮をとった。
しばらくして、加藤の家に一枚の色紙が届いた。毛筆で力強く、
「柱」
の一文字が記されていた。岡崎での会合の様子を伝え聞いた池田が、したためて贈ったものだった。
それを目にした瞬間の驚きを加藤は「色紙がまるで『ビューン!』と音を立てて飛んできたように感じた」と振り返る。
「この色紙が私と家族を支えてくれました。一家の柱たれ、社会の柱たれ、という意味でしょうか。あの日のことはいつ思い出しても・・・・・」目元を赤らめ、絶句した。
高校では生徒会長を務め、成績も常にトップクラスだったが、三年になるころには学費も交通費も払えなくなり、中退を申し出た。担任教師が学費を工面してくれた。卒業式では卒業生を代表して答辞を読み、「今日より一介の行員としてスタートしますが、必ずや大成して報告に参ります」と宣言した。