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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    病魔を越えて ①


 1980年(昭和五十五年)五月、碇は九州最年少の二十九歳で独立を果たし、博多駅前に会計事務所を構えた。

「スタート時の顧客はたった三件でたちまち困窮しました。あんまり食費に困って、市場の外に落ちていたキャベツの葉っぱを拾ってきたこともあります」と孝枝は笑う。

 「会計士は聖職者のようなものだ。利益を追うために存在しているのではない」──これが碇の持論だった。堅実さが認められ、顧客は10年間で九〇件になった。

 学会では男子部本部長や区男子部長などを歴任し、博多の男子部の要として活躍した。その日々はわが子を襲う病魔との闘いでもあった。

 次女が心臓疾患を患ったが、無事に克服した。長男、次男、長女の三人全員が「弱視で失明のおそれがある」と医師に診断されたこともあった。一年後、三人とも視力が回復し、主治医は「不思議なこともあるものだ」と首をひねった。


 その喜びを池田に報告した際、池田から長男の光俊に「御書が読めるように目が回復してよかったね。大きくなったら東京の大学に来なさい」との伝言とともに、「碇山 夫婦桜」と揮毫された御書が届いた。

 碇自身が末期の肺がんと宣告されたのは1999年(平成十一年)、四十九歳の秋だった。

  アパートに届いた「友よ強く」の原稿 ③


 この六九年、佐賀出身の碇安雄は九州大学経済学部の門をくぐった。もともと東京大学を目指していた。しかしこの年、東大は学生運動の影響で入試が行われなかった。

 碇は大学で学ぶにつれ、経済大国といわれる日本に貧困や公害がはびこっている現実を、他人事として避けることができなくなっていた。

「(卒業してから)矛盾を感じる社会の体制にスンナリ入るのが嫌だった」と手記に書き残している。「聖書や哲学書も読みふけって、ずいぶん悩み続けたようです」と妻の孝枝(福岡市、婦人部副本部長)が振り返る。

 卒業前、大手都市銀行への就職が内定した。しかし、信頼を寄せていた大学の講師から「悩んでいるのなら、中小企業で苦労している人のために公認会計士を目指さないか」と勧められる。

 碇は内定を蹴って東京に移り住み、専門学校に通い始めた。

「上京はしたものの、人生の悩みは深まるばかりで、勉強にも身が入らない毎日でした」(碇の手記)──そんな時、近くに住むいとこの江崎泰雄(東京・新宿区、副本部長)が訪ねてきた。

「君の理想通りの指導者が、君の下宿のすぐ近くにいるんだよ」。碇は学会本部にほど近い新宿区若葉町のアパートに住み、毎日、池田の自宅のそばを通って専門学校に通っていたのだ。

 「夫が入会を決意したきっかけは、座談会で見た一枚の写真です。それは難病を患っている婦人を、池田先生が抱きかかえるように励ましている写真でした。『感動で全身が打ち震えた。この人なら信じられると思った』と言っていました」(碇孝枝)

 ほどなく、碇のもとに池田から激励が届いた。「友よ強く」の詩が綴られた直筆原稿のコピーだった。

 「友よ強く 雄々しく立よ 僕が信ずる 君が心を・・・・・」

 一度は開けた就職の道を断ち、ちり紙交換のアルバイトをしながら苦学を続ける碇にとって、「友よ強く」はかけがえのない支えとなった。

 翌年、会計士の二次試験に合格した碇は、池田と懇談する機会があった。

「夫は、苦労している庶民を守ってください。という先生の激励を胸に、郷里の佐賀に戻りました。学会に大反対だった義父は夫を勘当しますが、のちに理解者となりました」(碇孝枝)。

  アパートに届いた「友よ強く」の原稿 ②


 「四権分立の発想は、発表されるずいぶん前から何度となく伺いました」。会長の原田稔は述懐する。

 「十七歳で敗戦を迎えた池田先生の世代は、教育によって国家がいかに狂ってしまうか、身をもって実感された。立法、行政、司法の三権から『教育』を独立させ、めまぐるしく左右する国家から自立すべきだという訴えは、大学紛争の真っただ中で公表されましたが、今もその価値はいささかも減じていません」

 「つらい戦争体験を経た先生の信条であり、のちの『教育国連』の提唱や、二十一世紀に入ってから『社会のための教育』ではなく『教育のための社会』をつくるべきだと訴えた『教育提言』の精神まで、一貫しています」

 「四権分立」を発表した六九年から七〇年にかけて、学会は大きな節目にさしかかっていた。

 六九年の五月三日、池田は本部総会で二つの重要な発表をしている。

 一つは、「翌年の五月三日までに『七五〇万世帯』の達成を目指す」というものである。

 そしてもうひとつは、二年後に誕生する「創価大学」の指針である。

 「人間教育の最高学府たれ」

 「新しき大文化建設の揺籃たれ」

 「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」

 大学紛争の騒乱のなか発表された三つの指針は、「見学の精神」と呼ばれ、今も創価大学を支える精神的な土台になっている。


  アパートに届いた「友よ強く」の原稿 ①


 池田は折々の機会に、この考えを語ってきた。関西の教育部(教育者のグループ)の中心者として活躍した三原節子は、「大阪教育大学の大学会で池田先生から直接、教育権を独立させる構想を聞き、教育への情熱を燃やしました」と語り残している。

 「政治は教育現場に100パーセント影響しています。だから先生の提言を知った時には本当に感動した。本来、教育や文化、芸術の領域に政治権力は介入してはならないのです」。学会の「教育相談室」の責任者である町田順司(東京・大田区、総区副書記長)は語る。


 町田は二十五歳で教育を志し、父親のスクラップ業を手伝いながら、横浜国大の二部を卒業。働き学ぶ苦労の中で身体も頑健になり、長年、高校の数学教師も務めてきた。

 今年、四五周年を迎える教育相談室は、「カウンセリング」という言葉がまだ定着していなかった昭和四十年代、池田の提案で始められた。現在は全国三五カ所に開設され、通産の来談者数は三六万人を超える。




    教育権の独立を ②


 1969年(昭和四十四年)四月、文部省(当時)の訓令により、国立大学に対して文部大臣の判断で警察を導入できる道が開かれた。さらに五月、「大学立法」(大学の運営に関する臨時措置法案)が国会に提出された。文部省の権限によって大学を「廃校」できるようにした法律である(2001年に廃止)。

 時の政府は、この法案を衆参両院ともに審議未了のまま強行採決し、国会は大混乱に陥る。

 「大学立法」が国会に提出された直後、池田は、

 「四権分立」

 という独創的な考えを提唱し、その内容は全国紙でも報道された。四四年前の本誌に載った「大学革命について」というエッセーである(六九年七月号)。

 このエッセーで池田は、前代未聞の事態を作り出した学生たちの心情を最大限に理解しようとしている──腐った偽りの繁栄の中で「昭和元禄」「豊かな社会」と「うそぶく大人の図々しさに(学生たちは)我慢がならないのであろう。私は、今日のスチューデント・パワー、大学革命の本源はここにあるとみている」(『池田大作全集』第一九巻)。


 「私自身、社会の矛盾と不安に対しては、不断の戦いをつづけてきたし、権力の横暴にも真っ向から挑戦してきた一人である。青年たちの憤りと決意が、痛いほど私の生命に共鳴するがゆえに、私は心から同情せずにはいられないのである。

 しかしながら、廃墟と化した大学を、このまま放置しておくことはできない。それはもはや、たんなる大学の問題ではなく、一国の文化の興廃を意味するからである」

 池田は「生命の哲学」というキーワードを掲げた。

「新しい大学の建設」は、「わが生命の内なる尊極(そんごく)の当体を開きあらわしていくことによって、初めて達成される」。そしてエッセーをこう締めくくった。

 「大学、ひいては教育の再建のために、政治と教育のあり方について、一言、申し述べたい。

 それは、現在の政界の一部には政治権力の介入によって大学の再建を図ろうとする動きがあるようだが、それでは、さらに火に油を注ぐことにしかなるまい。真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならないと思う。

 本来、教育は、次代の人間と文化を創る厳粛な事業である。したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。その意味から、私は、これまでの立法、司法、行政の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい」