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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

    教育権の独立を ①


 大学に進もう──池田の呼びかけた方針によって、各地に多士済々の人材群が育っていった。

 とくに影響が大きかったのは、冒頭で触れた1969年(昭和四十四年)夏の高等部総会だった。この年は「大学紛争」が空前の規模で全国に広がり、国会最大の議題になった年でもある。六八から六九年にかけて、全国でじつに10を超える大学がバリケード封鎖されたまま年を越した。東京大学の安田講堂では学生と機動隊の攻防が繰り広げられ、「東大落城」の模様がくわしく報道された。どのキャンパスも騒然としていた。

 日本大学二部に通っていた柴田幹男(東京・台東区、区議長)は「全共闘の最高幹部に弘教したこともあった」と振り返る。「だが御本尊を授与する直前、彼は逮捕されてしまいました」。

 東京理科大二部で学生部の責任者だった安部隆一(東京・武蔵野市、区副本部長)。

「学生運動の一派から狙われたこともありました。別のグループに入っている友人の家に行くと学会の御本尊が合って『お前も学会員なのか』とびっくりした」と語る。

「のちに先生から、直筆で『子孫末代の福運繁栄のために、此の一書の拝読を怠ることなかれ』と書かれた御書をいただきました」。


 安部は山形の鶴岡市で生まれ育った。中学三年の時、生活苦に悩み学会に入った。定時制高校を卒業後、東京理科大学に進学。一年の時、長野に出稼ぎに出ていた父の富吉が脳腫瘍と胃がんで倒れた。

「亡くなる前、父も信心を始め、『また生まれてくるからね』と言って静かに息を引き取りました」。

 大学を出て、高校の数学教師になった安部。学生時代、池田がある提言を発表した時の衝撃が忘れられないという。

 「先生が昭和四十四年に発表した『四権分立』の必要性は、教育現場でも痛切に感じました」

    父が受けた御書講義 ④


 学会員であることを理由に足を引っ張られることもあったが、逆境には少年時代から慣れていた。中国地方五県の優良企業が集まる品質管理のセミナーで、屋宮はトップの成績を収める。同社初の快挙だった。

 池田と直接言葉を交わしたのは、1977年(昭和五十二年)、男子部の部長時代である。山口文化会館での会合が終わった後、屋宮は「男子部に生涯の指針をお願いします」と声をあげた。色紙を用意していた。

 池田は受け取った色紙に「健実」と筆を走らせ、屋宮に渡した。「夫は、健康の”健”と、実践と実証の”実”だ、学会活動にも仕事にも、人生すべてに通じると言っていました」(屋宮ミナ子)。


 2001年、赤字を抱えた部門が分社独立した際、屋宮は副社長として出向。やがて社長に就いた。周囲には「貧乏くじを引いた」とつぶやく人もいた。

 「とにかく現場に出て一人一人との対話を心がけた」という屋宮。初年度、山口県内に本社のある会社のうち、法人申告所得で四三位。翌年は上位二十傑に食い込み、見事にV字回復を成し遂げ、本社の専務執行役員にも就任する。

 屋宮は六四年の生涯を閉じるまで「健実」を貫いた。

「肝臓がんで入院した時も、お見舞いに来てくださった同僚の方に『病気になってよかった。苦労がわかった。これから病気の人を本当に励ますことができる』と言って驚かせていました。最後まで『友よ強く』を胸に生き抜いた夫の一生を、私は誇りに思っています」(屋宮ミナ子)。

 

    父が受けた御書講義 ③


 「小さいころから学会員だというだけでいわれのない非難を浴びてきました」。鹿児島・奄美大島出身の屋宮和志はそう語り残している。彼もまた、夜学出身というハンディをものともせず強く生きた一人だった。

 奄美はかつて学会員が大規模な迫害を受け、それを乗り越えた地域である。屋宮自身も中学の授業中、英語教師から学会の悪口を浴びせられた。

「夫は『だから俺は英語が嫌いになったんだ』と笑っていました」。妻のミナ子が語る。

 九人きょうだいの三番目に生まれた屋宮を高校に通わせるため、姉は大島紬の工場で働いた。1967年(昭和四十二年)、屋宮は広島に出て近畿大学工学部の二部に進み、呉市内の鉄工所で溶接の仕事をしながら学んだ。

 当時、定時制高校に通う弟から屋宮のもとに届いた葉書には、池田の「友よ強く」の詩を引用しながら、「昼間の仕事 深夜の勉強 これも修業ぞ 苦は楽し」と書かれている。兄弟は「友よ強く」を支えにして、互いに励まし合っていた。


 屋宮は近大二部を最優秀の成績で卒業し、後に東証一部に上場する大手化学メーカーに就職。山口・小野田市(当時)に赴任した。上司からしばしば「君は夜学の首席か。鶏の頭よりも牛のしっぽだよ」と揶揄された。

 司馬遷の『史記』に「鶏口となるとも牛後となるなかれ」という言葉がある。

「大集団の中で人の尻について回るより、小さな集団のトップの芳がいい」──この諺を上司は、意味を逆さまにしてうそぶいた。

「せいぜい名門大の学閥に従うほうが身のためだ」という”処世術”である。

   父が受けた御書講義 ②


 麻布大学の教授として感染症の研究に携わってきた鈴木潤(東京・町田市、区本部長)は、「中野工業高校に通っていた時、『全員が大学に』という池田先生の話を聞いて進学を決意しました」と振り返る。高校を卒業後、製薬会社で働きながら、二年後に東京理科大の二部へ進んだ。

 鈴木は父の姿から「学ぶ」姿勢を教わったという。父の藤助は太平洋戦争で徴兵され、中国の浙江省に出兵。至近距離の爆撃を受け、ほとんど目の見えない状態で帰国した。一家で学会に入ったのは1953年(昭和二十八年)の冬だった。

 「父はいつも白いつえを携えて学会活動に出かけ、二〇倍の拡大鏡を使って御書(=日蓮の遺文集)を読んでいました。草創の蒲田支部で、池田先生の御書講義も受けました。自宅に帰ってきて、うれしそうにその様子を話す父の姿が忘れられません」

 鈴木は1992年(平成四年)、学会の支部長として最前線に立ちながら医学博士号を取得。七年後、町田市内の学会の区文長を務めながら大学教授に就任した。

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