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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   父が受けた御書講義 ①


 「あの出会いがなければ今の自分はなかった」と語る羽田野重信(愛知・弥富市、副本部長)。工業高校三年の時、夏季講習会で池田の「大学へ」という一言に心動かされた。

 翌年、名古屋大学を受験したが不合格。

「すぐに男子部の先輩か来て『あきらめるな』と励ましてくれました」。ひと月後、名大で技術職員(=文部科学技官)を募集しているという話を聞いた。

「倍率は大学受験より高かったのですが、これに合格しました」。

 羽田野は四〇年以上、「粉体工学」という分野で基礎研究に従事している。執筆した論文が二〇本に近づいたころ、担当の教授から「博士論文を書いてみないか」と打診された。高卒の五十代。前例はなかった。仕上げた学位論文をめぐって学内で委員会まで開かれ、二〇〇五年、晴れて工学博士号を取得した。

「高卒の技官でも学位を取れる前例」をつくった。

「その後、名大では四人の技官が博士号を取っています」

    「一人ももれなく」 ③


 「大工大の大学会で先生は、設計士を目指す私たちに『こんど関西の会館を改装する。君たちでやってみないか』と言われ、びっくりしました。実際にそのなかの一人が関西センター(当時)の改装に仕事として携わったんです」

 「学生時代に大学の仲間で、どんなテーマでもいいから本を一冊出して世に問うてみてはどうか」という池田の提案にも驚かされた。

「目の前の世界がぐんぐん広がりました」。


 のちに関西学生部の二部学生たちは、大規模な「働く学生の意識調査」を実施。NHKニュースや全国紙でも大きく取り上げられた。

 難波は一級建築士として、関西一円の学会の会館建設にも携わってきた。

「学会の会館は、民間に定められた基準よりも頑丈に造っています。だから阪神・淡路大震災でもほとんど無傷だった。今は東日本大震災を経て、さらに万全を期すために検討を重ねています」。

    「一人ももれなく」 ②


 「『全員が大学へ』という先生の言葉がなかったら、大学に行くはずもなかった」。難波寿雄(大阪・鶴見区、副総県長)は高校を卒業してすぐ、大阪・北区の建築設計事務所に勤めた。かつて父の英雄は北浜の証券街でうどん店を営んでいた。以前は大手ゼネコンに勤めていたが、労働争議で同僚が解雇された。その経緯が理不尽だと訴え、自分も職場を去った。

 英雄は長患いの末、難波が中学一年の終業式の日に亡くなった。母の久子は父のうどん屋を引き継いだ。四人きょうだいの母子家庭は食いつなぐのがやっとの日が続いた。

 「俺はずっと日陰で生きていくものだと思っていた」という難波は、都島工業高校一年の冬、同級生から学会の座談会に誘われる。

 座談会の中心者は菜っ葉服(=作業着)を着た、片足の不自由な男性だった。小学校も満足に通えず、ひらがなしか読めない。聖教新聞も周りの人に読んでもらっていた。

 「明るい人が多い。苦労をバネにして生きる人たちの集まり、という感じだった。それまで抱えていた劣等感が小さなものに思えて『俺も人生を変えられるかもしれない』と感じたんです」。反対する母の久子を説得し、信心を始めた。

 「一人ももれなく大学へ」という池田の言葉を先輩から伝え聞いた。就職して二年目、家族に支えられ、設計事務所働きながら大阪工業大学の二部に進んだ。

    「一人ももれなく」 ①


 参加者の視線が、壇上の池田大作に注がれる。生まれて初めて池田の姿を見る高校生たちが多かった。

「あれだけ大勢の同世代が集まる所に行ったことはありませんでした」と振り返る大塚も、その一人だった。

 会長講演で池田は、信仰と学問の関係について、さまざまな角度から、噛んで含めるように語った。そして自らの体験を通して、学ぶ道を邪魔する「第一の敵は病気であり、生命力がないこと」であると強調した。

 「学問の道をふさぐ最大のものは、ともすれば社会や自分の家庭の事情等のように思いがちでありますが、そのような障害は、まだ小さいといっていい」

 「私は、少年時代、青年時代、病弱で本当に損をしました。その同じ轍を、諸君には絶対に踏ませてはならない、と思っております」

 さらに「一人ももれなく大学に」進んで欲しい、社会のため、不幸な民衆のためにちからをつけてほしい、どの第一歩は信心であると訴えた。

 「私は平凡な一青年にすぎない。決して私を偉いと思ってはいけない。未来の学会は、高等部出身の諸君に一切お願いする以外にない」──こう締めくくられた池田の話に、「高校すら行ってないのに大学なんて想像もしなかった」という大塚は興奮を抑えきれなかった。


 岡山に戻ると、駅まで父が迎えに来てくれていた。「父に会うなり『来年の春から高校へ行きたい』と切り出していました」。

 父は「思うようにやればいい」と後押ししてくれたが、翌春の受験は失敗。兄の住む大阪に出て、働きながら学ぶ道を選んだ。

「電話ボックスの電話帳で『高校』と名のつくところをいくつも探し、『夜間部はありますか』と尋ねました」。

 天王寺第二商業高校に合格し、昼間はガス会社で働いた。そのころ池田の「友よ強く」の誌も知った。「勉強は苦手だが体育は得意だった」という大塚は高校で弁論部と陸上部に入り、定時制全国大会の1600メートルリレーで優勝。スポーツの世界で生きたいと思い、大阪体育大学に進み、やがて中学の体育教師になる。

 中学教頭、小学校長を経て、今は大阪市内で中学校長を務める大塚。

「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の目は急速に伸びる──この池田先生の言葉が私の教育者としての指針です」と語る。


1969年、大学紛争が全国に広がり、


政治権力の介入が強まる中、


池田は、教育を再建するために


「教育権」を政治から独立させるよう提唱する。


池田は一貫して青年に語っていた。──


「一人ももれなく大学に進んで、


社会と民衆のために力をつけてほしい」


その呼びかけに応え、幾多の向学の友が


働きながらでも学ぶ道へ


人生の航路を転換していく。


「私は平凡な一青年にすぎない」


 大塚英雄(東大阪市、本部長)は岡山の吉備郡足守町(当時)で生まれた。父が縫製工場を経営したが、うまくいかなかった。貧しさに悩み、一家で創価学会に入ったのは1958年(昭和三十三年)の秋だった。

 それから10年が過ぎ、中学を卒業した大塚は鉄工所に就職し、親元を離れて住み込みで働きはじめた。

「私は高校に進まなかったから、学会の高等部員でもありませんでした。でも、ある男子部の方が『夏休み東京で、大きな高等部の会合がある。行かないか』と声をかけてくれたんです」。

 この心遣いが、大塚の人生を大きく変えることになる。

 1969年(昭和四ッ十四年)八月十五日。二四回目の終戦記念日に、日大講堂で高等部総会が行われた。十五歳の大塚は、何人かの友人と一緒に夜行列車に揺られ、東京へ向かった。