読者の皆さん、いつもありがとうございます。
<m(__)m>
次の連載が決まりました!
次回から、民衆こそ王者ー池田大作とその時代
「友よ強く」─働き学ぶ誇り(4)を連載しますので
どうぞお楽しみに!
宜しくお願いします <m(__)m>
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民衆こそ王者ー池田大作とその時代
「友よ強く」──働き学ぶ誇り(3)の連載が
今日で終了しました。
次の連載が決まるまで、しばらく連載をお休み
しますのでよろしくお願いします。<m(__)m>
毎日猛暑が続いていますので、熱中症には
くれぐれも注意してくださいね!
「我が手にて書くはこれが最後である」 ③
武雄もまた「病によって求道心は起こる」という日蓮の言葉(妙心尼御前御返事)を体現した。無数の学会員の一人だった。
「思えば、信心を始めた後の父は、どう見ても病人の顔ではなかった」と裕は振り返る。生前の武雄取材した聖教新聞の記者は「実に血色はよく、こちらも話に夢中になり、鈴木さんに手足がないことを忘れてしまったほどだった」と述懐している。
1981年(昭和五十六年)、武雄は六三歳の生涯を終えた。
「父は命の保証はできないと言われてから一五年以上、寿命を延ばし、じつに四〇回の手術を乗り越えて生き抜きました。『学会がなかったら、今日の私も、和楽の我が家もなかった。報恩感謝の毎日だ』。これが口癖でした。北区の地元の方々にも、大変お世話になりました。
息子の裕は今、学会の「自由グループ」(身体障がい者のグループ)、「自在会」(目の不自由なメンバーの会)、「妙音会」(耳の不自由なメンバーの会)の責任者としても奔走する日々である。
池田は鈴木父子のドラマを紹介したエッセーで、次のような綴った。
「こうした先輩の励ましで、信頼のきずなを深めた子どもたちこそ、私たちには誇りである。何万、何十万の彼らは、立派に成長し、社会の第一線で活躍している」
その「何万、何十万の彼ら」が池田とともに歩む道のり。さらに辿りたい。
「我が手にて書くはこれが最後である」 ②
裕は高校で生徒会長を務めながら、自力で学費を稼ぎ続け、中央大学に進学を果たす。間もなく父の武雄は右腕の上腕部を切断。その二年後、ついに左腕も切断しなければならなくなった。
「我が手にて書くは これが最後である・・・・」
手術の直前、武雄は握力の弱まった左手にペンを持ち、子どもたちへ次のように書き残した。
「息子よ子等よ
師に続け
伝持の走者となれ
広布の道程を走り続け
倒れるまで走り続けよ
・・・・・
私の手の 足の分まで
走り続けて欲しい
広布に生き
広布に汗流すことに
誇りをもってもらいたい
苦しいときも 嬉しいときも
師の叫びを思い起こすのだ
父より」
両手足を失った後も、武雄のもとには悩みの相談に訪れる同志の姿が絶えなかった。武雄は日蓮の御書を学び続けた。自分のあごと舌でページをめくった。地元の支部や地区で行う御書講義も深みを増し、「団地の教学博士」と呼ばれた。