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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「もう一度、私も思索したい」 


 世界の食糧危機がクローズアップされた73年、池田は東京の世田谷にある東京農業大学を訪問している(3月4日)。

 同大学に学んでいた学生部員たちは大規模な「現代農業展」を企画し、準備に明け暮れた。3年生だった秋田谷敏郎(東京・日野市、副区長)は「樹木と人生」という展示を担当した。

「ちょうど食糧危機や環境問題が大きな話題になっていました。なんとかわかりやすくできないか、皆で知恵を絞りました」。

 会場となった新館116教室。池田は学長平林忠とともに訪れ、展示を見学した。15メートル四方ほどの教室に、10分野にわたる手作りのパネルが所狭しと並べられ、室内庭園やミニ動物園まで設けられていた。

 まず「動物性タンパク質」という文字が目に飛び込んできた。担当の学生が汗をぬぐいながら「世界では肉や魚を食べられる人がきわめて限られています」と話す。池田は一つの説明にうなずき、「全部、記録に残そう」と聖教新聞のカメラマンに声をかけた。

 「乳加工」のコーナー。池田は「これは面白いね。天然の乳糖と、合成の乳糖は、同じだろうか」と質問した。学生が答えに窮すると、学生たちの顧問だった杉村敬一郎(横浜市、総区主事)が「精製してしまえば、いちおう同じです」と助け船を出し、さらにくわしく解説した。

 杉村は東京農大の教授であり、学会の学術部員でもあった。この「現代農業展」の準備を支えた一人である。

「一個の人間として、学生たちと一緒になって取り組みました」と振り返る。同大学の、じつに30人近くの教員たちが展示内容にアドバイスを寄せ、協力を惜しまなかった。

 「米の一生」「アイソトープ」「未来の飼料」・・・・・専攻する学生が次々と解説していく。害虫に食われた稲穂を目にして、池田は「害虫は全部で何種類いるの?」「すべて研究され尽くしているの?」と尋ねた。また「たくさん聞きたいことがある。後で紙に書いて質問します」「私も考え方を変えよう」と語る一コマもあった。

 「成人病対策」のコーナーでは自ら身長計やヘルスメーターに乗り、学生たちが工夫した献立表を見て「生きた生活学だね」と感心した。

 会場の一角に、巨大な世界地図が貼られていた。「食糧問題」のコーナーである。慢性的な飢餓の様子が一目で分かった。

 「この問題は非常に難しい」。地図を見上げた池田は「解決できた人はノーベル平和賞だね」「二十一世紀の基盤になる」と農大生への期待を語った。

 「今日はありがとう。これは二十一世紀の最も重要な問題です。もう一度、私も思索したい」。池田はそう言って会場を後にした。この日に「最も尊い学問の探究者である、という誇りをもって進んでください」とも語り残している。展示に携わった一人、寺尾久義(静岡・焼津市、副圏長)は「あれから40年経ちましたが、年齢を重ねるごとにその意義をますます深く感じます」と語る。

   「世界食糧銀行を」 


 創価学会の「農村部」は1973年(昭和48年)、「食糧危機」が叫ばれた年に生まれた。この年、世界の穀物価格が跳ね上がったのである。

 ソ連が牛や豚に食べさせる飼料用の穀物を大量に輸入し、相場に火がついた。アメリカは自国の市場を守るため、大豆の輸出を禁止。「穀物」は「核」「石油」に次ぐ「第三の戦略物資」と呼ばれた。

 1月から2月にかけては大豆の価格が高騰。大豆の自給率がわずか数パーセントの日本では「豆腐戦争」と呼ばれるパニックが起こった。

 まもなく「オイルショック」が勃発。前年に発表されていたローマクラブのリポート『成長の限界』も、議論に拍車をかけた。


 この年の1月、500人ほどの青年部員が集まった場で、ある青年が池田に質問している。彼はアメリカに本社のある、世界有数の食糧会社に勤めていた。

 ──毎朝、世界の食糧事情を記したテレックスを目にする。仕事を通して「飢えと死)について悩むようになった。毎日、大勢が飢えで死んでいく。防ぐためにはどうすればいいか── 池田は一つの解決策として、「世界食糧銀行」を作れないか、と彼に語った。

 翌74年、池田は本部総会で正式に「世界食糧銀行」を提言した。また同年、モスクワで会見したソ連首相のコスイギンにも提案している。

 「私が会長に就任して一番先に祈った一つは『お米がたくさん、とれますように』だった」(2003年7月27日付「聖教新聞」)。池田はこの思いを、何度となく語ってきた。

 「人間は食べないと生きていけない。食べ物を大事にすることが、生命を大事にすることである。労働を大事にすることであり、人間を大事にすることである。それが『文化』の基礎である」

 「食べ物を大事にせず、農村を大事にしない社会が、人間や生命を粗末にする野蛮な社会となり、すべての面で行き詰まるのも不思議ではない」

 農漁業に携わる学会員たちを全力で励ましてきた池田の胸中には、この「会長就任時からの信条」がある。

   父の病と新聞配達 ②


 四月に海苔の収穫を終えると、「ヒビ抜き」など漁場のかたづけ。夏は「ヒビづくり」「葦狩り」「簀編み」など冬に向けた準備をこなした。

 やがて羽田沖は埋め立てられる。大森の漁場が閉じられた頃、海苔の値段は一枚平均で7円69銭だった(1962年度)。現在は8円58銭(2012年度)。50年経って、わずか1円しか変わらない。この間、大卒の初任給が10倍を超えたことを考えると、海苔がどれほど高級品だったかがわかる。

 海苔づくりの技術は見違えるほどの進歩を遂げた。しかし、自然を相手にした苦労は絶えない。

 「海苔は昔から『運草』とか『ばくち草』と呼びます」と実形は語る。「取れ高も値段も天候に大きく左右される。海苔の胞子を付けた網を、いつ海に出すか。1日づれると育ち具合が変わる。『今だ』と思ったら水温が大きく変わってしまい、失敗したこともあります。今でも『一年生』の気持ちですよ」

 

 実形は昔ながらの「浅草のり」の養殖を仲間とともに再現し、NHKの生放送で全国に紹介されたことがある。

「あの時、先生からすぐに『テレビを見たよ。私は浅草のりの本家本元なんだよ』とユーモアのこもった伝言が届きました。こんな田舎の一人の学会員にまで心を砕かれるなんて、思ってもみませんでした」。

 「夕張炭労事件」の時、池田は漁師の間に伝わる「板子一枚下は地獄」という言葉を通して、「夕張の同志はもっと危険な地底で働いている。その同志がいじめられるのを、私が黙っていられるか」と語った。これもまた、冬の海に身をさらした自らの体験から絞り出された言葉だった。

   父の病と新聞配達 ①


 冬の最も忙しい時期、池田家には千葉や山形から20人~30人の「シオトリ」、7~8人の「ホシッカエシ」と呼ばれる働き手が住み込んだ。

 「シオトリは男性の、ホシッカエシは女性のお手伝いさんのことです。子どものころ、私の家には出稼ぎの方が二、三人来ていました。通常はそれくらいの人数でした」(実形博行)。このシオトリとホシッカエシの人数からも、池田家の海苔づくりはかなり大きな規模だったことがわかる。

 しかし池田が八歳の時、父の子之吉(ねのきち)がリウマチで病床に臥せってしまう。家業は傾いていった。

 「しばらくすると、大好きだった長兄が兵隊にとられた。(中略)やがて、私は、家の手伝いに加えて、新聞配達もするようになっていくのである」(2000年1月21日付「聖教新聞」)

 「海苔干し」が終わった午前四時ごろ、池田は新聞配達に飛び出す。

「朝刊を配達してから学校へ。学校から帰ってきて海苔はがし。夕刊の配達。夜は海苔のゴミとり作業──私にとっては、なかなか多忙な1日1日だったことが懐かしい。

 ただ、こんな生活は、もともと強くない私の体を疲れさせた。通信簿には『腺病質』と書いてあったと記憶する」(2001年4月8日付「聖教新聞」)