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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「その言葉を待っちょったんよ」 ②


 岡村は26歳で船団長になった。それまで船団長だった父の宣男が心臓を患い、若くして重責を担った。

 1年ほど前、大きな転機を迎えていた。漁協の婦人部長でもあった母の洋子が倒れたのだ。肝臓がんだった。

「病院で『あと一週間の命』と宣告されたのですが、母は病室に持ち込んだ御本尊に祈り、笑顔を絶やしませんでした」。

 岡村が5歳の時、一家で入会していた。中学を卒業した後、岡村は父の下で漁師の修業を始めたが、信心には背を向け続けた。

「漁師の世界は結束が固いから、両親は『耳慣れない宗教を始めたぞ』とずいぶんいじめられたようです。親戚の冠婚葬祭を知らせてもらえなかったこともありました」。

 母が倒れたその日から、大島だけでなく、萩市内の学会員までが船で大島に渡り、自宅を訪ねてくれた。

「まさかそこまでとは思わなかった」と岡村は振り返る。

「母の回復を懸命に祈る学会員さんの姿に胸打たれました。他人様があそこまでやってくれる姿を見たことがなかった」。

岡村は妻の八代子(支部副婦人部長)とともに、初めて心の底から真剣に祈った。

 病室で横たわる母の洋子に「ワシらも本気で信心を始めたぞ。見ちょってくれ」と告げた。洋子は何度も「そうかい、そうかい」と繰り返し、「その言葉を待っちょったんよ」と満面の笑みを浮かべた。洋子はその後、半年近く寿命を延ばし、「何があっても、絶対に御本尊を守り抜きいよ」と言い残して息をひきとった。

  「その言葉を待っちょったんよ」 ①


 山口の萩から北西に8キロ船で30分ほど揺られると、人口約800人の大島に着く。岡村直明(副支部長)はこの島で「巻き網漁」の船団長を務める。島の漁協幹部として地域の信頼も厚い。第三回「ルネサンス体験主張大会」(1999年)に登壇した。

 岡村の船団は八隻。「船員は18人で、一年目の若手からベテランの漁師まで、一人かけても成り立ちません」と語る。

 夕方、港を出る。三隻の「灯船」が魚を集め、「網船」が、長さ600メートル、深さ225メートルの巻き網を海中に広げ、魚群を囲んでいく。

 船団長の岡村がマイクで合図を叫ぶと、息を合わせて一気に網を絞り、何万匹ものアジ、サバ、イワシ、を四隻の「運搬船」に流し込む。目の前に現れる「魚の滝」に圧倒される。

 その作業を二回か三回繰り返し、明け方、港に戻る。

「毎日のことですが、仕分けのために港で待っている妻の顔を見ると一番ほっとします」と岡村は顔をほころばせる。

 網入れや巻き上げるタイミングが少しでもずれると、魚を逃すだけでなく、転覆事故につながってしまう。漁の季節が始まる時、岡村の船団は、学会員も、そうでない人も、全員の総意で近くの萩会館に集まり、「船団勤行会」を行う。無事故と豊漁を祈り、心を一つにして漁に出るのだ。

 「第六次産業」と呼ばれる「地方に新しい産業を起こす」動きがある。

「生産者」(第一次産業)が「加工」(第二次産業)も「販売」(第三次産業)も一括して行う。「一」と「二」と「三」をかけて「「大六次」である。

 大島では、日本海に生息する瀬付き鯵」を「萩のブランド魚」と位置づけ、全国に販路を広げている。岡村が率いる船団は、その要の一つだ。

  農業の担い手は半分以上が女性 ②


 結婚して2年目、地元の有力者から急に「少年補導委員」になってほしいと頼まれた。28歳の時である。舗道委員は男性しかいなかったので、女性にも頼みたいという。

 さらに「あった創価学会やろ。真面目やから」と言われ、目を丸くした。

「農作業は絶対に手を抜かず、学会の会合や家庭訪問に通う姿を見ておられたようです。あの時『学会員であることが君たちを保証してくれる時代がくるよ』という先生の言葉を思い出しました」。


 それから10年後、信濃町の学会本部で池田と話す機会があった(1985年2月)。全国から集った圏婦人部長との懇談会である。

 池田が一人ひとりの状況を聞いていく。井上は「兵庫から来ました。先生、東播(=東播磨)にもいらしてください」と言った。

 池田は笑いながら「全世界の同志が私を待っているんだよ」と言い、「君が東播を守るんだ」と井上を励ました。

 「広宣流布は99・99パーセント、婦人部で決まる。じっと見ているから。君に東播のことを頼んだよ」

 井上は「あの瞬間、『そうや、私はここで勝つんや』と腹が決まったんです」と振り返る。

 学会の圏婦人部長を8年間務めた後、井上は地域の人々から地元の婦人会の会長に推された。悩んだすえに「地域のためなら」と引き受け、歯に衣着せぬ発言で「もの言う会長」と評された。

「結局、消費者協会の会長とか、日赤奉仕団の責任者とか、多い時は26も地域の役職を任されて、大変でした」と笑う。

 採算割れや後継者不足に悩む近隣の農家から「うちの田んぼも耕作してくれないか」と頼まれ、2ヘクタールだった水田は今、8ヘクタールになった。

 ピンクや水色といった明るい色の服を着て、楽しく水田で働く井上のスタイルは、地域の女性にも広がっている。もう一つ、独自のスタイルがある。

「嫁いだばかりのころ、収穫を終えた日に『どうしても新米を食べたい』と無理を言ったんです」。

 義母に「売り物を食べるなんて気持ちが悪い。笑われるで」と反対されたが、頼み込んだ。その年から井上家では、ゆずを少し絞った白菜の漬け物を用意して、収穫したばかりの新米を食べるのが伝統になっている。

「これ以上の贅沢はありません。農家にしか味わえない喜びですよ」。

  農業の担い手は半分以上が女性 ①


 創価学会には「農漁村ルネッサンス体験主張大会」と呼ばれる全国中継の伝統がある。信仰の体験、仕事の苦境を乗り越えた体験などを通して、その地で生きる喜びを語り合う。昨年で15回の節目を数えた。

 現在、全国で大小さまざまな規模の体験主張大会が行われ、学会員でない地元の農漁業関係者も大勢参加し、信仰の有無を超えて好評を博している。


 今年2月、兵庫の体験主張大会で登壇した井上芳子(加東市、総県副婦人部長)は、加東市の稲作農家としては最大級の耕地面積で「山田錦」や「コシヒカリ」「きぬむすめ」「ヒノヒカリ」などを育てている。

 「農業は男の仕事」と思っている人は多い。しかし日本の農業の担い手は、「半分以上が女性」である(2012年の農業就業人口の51・07パーセントが女性)。女性の力なしで日本の農業は成り立たない。

 井上は26歳で農家に嫁いだが、もともと農業には縁は無かった。織物工場を経営する家に生まれ、何不自由ない環境で育った。しかし中学生の頃、実家が傾き、1960年(昭和35年)に一家で入会する。

 女子部の時、ある会合で池田のスピーチを聞いて衝撃を受けた。

 「学会員は皆が貧乏人、という時代でした。そんな私たちに先生は『今に、創価学会員であることが君たちを保証してくれる時代がくるよ』と、確信を込めて語られたんです。強烈に印象に残っています」

 嫁ぎ先は地元有数の農家だった。田植えの季節には10人を超える「早乙女」(田植えを手伝う女性)を雇った。

「朝6時から家族総出で田んぼに出ますから、嫁がやらないわけにいきません。なのに私は泥の中に足を入れるだけで一苦労。ミミズやヒルを見つけては大騒ぎしていました」と笑う。

 田植えが終われば水の管理、除草剤の散布、追肥、穂肥(=穂が出る直前に肥料を与える)農薬の散布など)休みなく仕事が続く。井上は、雑草を抜く「ヒエ引き」では雑草と間違えて稲ばかり引き抜いてしまった。

 近隣にも頭を下げ、積極的に教えを請うた。ベテランの農夫から「肥料はこれくらい播くんや」と言われたが、「これくらい」の感覚がわからない。田んぼに計算機を持ち込んだ。笑う人もいたが気にしなかった。自分の掌は肥料を何グラム持てるのか。歩幅が何センチかも測って播いた。さらに地元の農業改良普及所にも指導を仰いだ。

 上手に播けた場所は、稲が見事な緑に育つ。失敗すれば黄色くなる。一切ウソのない結果を目にするごとに、農作業が面白くなっていった。

    地を離れて人なし


 1973年(昭和48年)10月に結成された農村部。これまでにない組織であり、暗中模索のスタートだった。

 当時の幹部は「自分にとって、農業のことをほとんど知らないのが、かえってよかったのかもしれない。とにかく『悩みをじっくり聞く』以外にないから、皆さんの声を、余計な思い込みなく聞けた」と振り返る。

 まず山形、茨城、長野、鳥取、宮崎の五県をモデル県に定め、現場を歩いた。それは「地を離れて人なし」という言葉を実感する日々だった。地域によって抱える悩みは千差万別である。いっぽうで、機械化の不安や後継者問題など、共通の悩みもあった。

 しかし、最も胸に迫ったのは「生命を育む喜び」だった。耳を傾けると、無口な壮年が「稲に話しかけると、答えてくれるんよ」とつぶやく。「今、『水が欲しいよ』と言ってる。おらにはわかるんだ」と飾らない言葉を口にする。

 「白米は白米にあらず・すなはち命なり」(白米一俵御書)。この日蓮の言葉を肌で感じた。


  農業も漁業も、住んでいる土地がそのまま職場であり、生活の場である。ひとたび迫害を乗り越え、信頼をつかんだ人たちは「その地域にいないと困る人」になっていた。

 日本中、どんな草深い辺境の地を訪ねても、そこに同志がいた。ある幹部は、学会に入ったばかりの20代の頃に池田から聞いた言葉を思い出したという。

 池田が第三代会長に就任した直後、各地に続々と新しい支部が誕生した。ある支部の結成大会が終わり、池田が退場する時のことである。整理役員たちの前で池田が立ち止まった。

 「青年は勉強しなさい。道は私が切り開いておくから」

 鮮烈な一言だった。「あの言葉とおり、どこに行っても本当に『道』が開かれていた。各地を歩けば歩くほど『ここまで足を運ばれたのか』『ここにも先生に励まされた人がいるのか』と驚きの連続だった」。