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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「どこからきただね」 


 疎開先の東京・大森から数時間。肺を病んでいる池田は列車に揺られ、すでに疲れていた。

 「駅から30分ほども歩いたろうか。折から、道に面するイモ畑で、十数人の買い出し客が、お百姓さんたちとあちこちで盛んに交渉している。私も近寄っていった」

 交渉相手は、麦わら帽子をかぶった婦人だった。粘っていた先客たちは「だめだめ。今日は何もとった物が無いからね。けさから、ずっと断りつづけだよ」と言われ、あきらめて立ち去った。

 「私は一人、その場に佇んでいた。どうにかして食糧を手に入れようという願望よりは、田園のたたずまいに魅せられていたのである」

 買い出し客たちの風貌は、ひげを生やし、やつれた軍服姿が目立っていた。そんななか、痩せた少年が一人で立ち尽くす姿が珍しかったのか、婦人は畑仕事の手を休め、池田に声をかけた。

 「あんた、どこからきただね」

 「東京の、蒲田からです」

 「カマタ?ああ、品川の先の・・・・・。あんたは買い出しに慣れてないようだねえ」

 婦人は池田の顔を見つめ、「いやに顔色が悪いね。疲れているのかい」と尋ねた。言葉に詰まった池田は「結核なんです」と打ち明けた。婦人は「ま、ひとまず、うちで休んでいきなさい」と言った。


 「兄弟は、いなさるの?」と聞かれ、池田は四人の兄が全員徴兵され、まだ一人も戻らない、と告げた。今度は池田が「ご家族は・・・・」と尋ねたが、彼女は首を振った。夫婦二人だけで暮らしているようだった。池田はそれ以上聞かなかった。

 婦人に問われるままに、これまで働いていた鉄工所が閉鎖されたこと、家には病気の父、母、弟や妹たちが待っていることを話した。

 「おかみさんは、うなずきながら耳を傾けていたが、ひと区切りつくと、しばらく考えている様子だった。それから、腰をあげた。『よくわかりましたよ。これからも頑張ってね。今、うちには余分なものはないが、サツマイモを持っていきなさい』と言って、笑顔を見せた」

 イモを6貫目(22.5キロ)、持たせてくれた。値段は一貫目10円だと言われたが、池田は一貫目12円を払った。

「買い出しイモは、母がふかして、皆で食べた。栗のようにホクホクした農林一号のおいしかったこと、そして弟妹たちの嬉しそうな顔が、忘れられない。イモの温かさには、あのおかみさんの真心が染みているように思えた」。

敗戦による深刻な食糧難の中、肺病を押して千葉に買い出しに出た17歳の


の池田は農村の大切さと美しさを胸に刻む。


1977年(昭和52年)2月、農漁業に携わる同志らの集った会合で、池田は各


人が「地域の灯台たれ」と訴えた。


天災、減反、輸入の増大など、数々の試練に歯をくいしばって奮闘する人々


は、やがてそれぞれの地域の「希望」となっていく。


 東京の焼け野原を抜けて、別世界へ


 幕張駅で降りると、プラットホームは潮風の香りがした。17歳の池田大作はリュックサックを背負っていた。1945年(昭和20年)9月。太平洋戦争の敗戦直後である。

 この日、池田は国鉄に乗って千葉まで買い出しに出かけた。幕張駅の南には国道が走り、その向こうがすぐ海だった。北に目をやると穏やかな田園が広がっていた。

 『サンデー毎日』に連載されたエッセー「忘れ得ぬ出会い」で、池田は「たった今、東京の焼け野原を抜けてきた私には、あまりにも平和な別世界であった」(『池田大作全集』第二一巻)と綴っている。


  「その言葉を待っちょったんよ」 ③


 もう一つの原点は、池田との出会いだった。1984年(昭和59年)の10月21日、池田は萩会館を訪れている。会館20周年記念の勤行会が行われた。四度目の萩だった。前日は、山口市で行われた二万人の「山口記念文化祭」に県知事らとともに出席していた。萩訪問の翌日は柳井、さらに防府大島、岩国と会員の激励に回った。

 「萩会館のすぐ裏に松本川という川があります。多忙なスケジュールの先生ですが、時間があれば、漁船に乗って萩の海を見ていただこうと私と弟で願っていました」

 会館の裏で待機していた岡村たちの視界に、池田の姿が入った。

「遠くから『ありがとう、ご苦労さま』と声をかけられたのですが、残念ながら海へご一緒する機会はありませんでした」。

 岡村兄弟は、会館の中へ向かう池田の姿を見届けた。その直後のことだった。

「先生に同行していた人が駆け足で戻って来たんです。『すぐ会館まで来てください』と」。

 皆で勤行しよう。あの兄弟も呼びなさい──池田の伝言だった。

 作業着のまま仏間まで走った。すでに20ほどが待っていた。池田は、岡村兄弟が座ると同時に鈴を鳴らし、朗々と勤行が始まった。

 「胸が熱くなって、うまく言葉が出なかった」と岡村は振り返る。「陰にいた自分たちにまで、こんなに心を砕かれるのか、と。祈っている最中、信心を教えてくれた両親のこと、船団のこと、いろんな思いが去来しました。俺も船団長として、先生のように一人ひとりを大事にしよう、と決めたんです。

 今年、船団長として30周年を迎えた。長男の淳一郎(男子部副部長)、次男の直人(同ニューリーダー)も一緒に船に乗る。巻き網漁に臨んで乗組員全員が集う「船団勤行会」は今、未入会の船員の要望を受けて、漁の季節が終わった時にも行っている。


 「軽佻浮薄(けいちょうふはく)な都会人が、田舎者だと見下しても、そんな根無し草の人生より、何千万倍、あなたがたが尊い」(1999年8月22日付「聖教新聞」)と池田は綴る。

 「日本中、どの土地にも、何百年、何千年もの先祖の苦闘が染み込んでいる。労働に自分のすべてをかけて生き抜いてきた。その汗が、この畔にも、あの川べりにも、光ってみえるではないか。

 だから『田舎』ではない、ここが『中央』だ。ここが世界の『真ん中』なのだ」

 「土」に生きる同志。

 「海」に生きる同志。

 彼らの多くが自らの指針にしてきた、池田の言葉がある。

 「地域の灯台たれ」

 この一言の背景に迫りたい。

読者の皆さん、いつもありがとうございますm(__)m

ブログの更新が出来ずにすみませんm(__)m

実は今横浜の息子のアパートに片付け

に来ています。

散らかり放題だった部屋も大部分きれ

いになりました。

明日あたり千葉に帰ろうと思っています。

また台風が近づいていますので、皆さ

んお気をつけくださいね!







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