『この土あるかぎり』 ②
吉沢きく子は幼いころから住んでいた家を空襲で焼け出され、西多摩にある夫の実家に身を寄せた。そこで初めて、野菜作りを手伝った。
「義母が食べさせてくれたサヤエンドウのお汁があんまりおいしくて、『ああ、こういう暮らしがいいなあ』と思ったんです」。
開拓増産隊の募集を人づてで知った。思い切って応募し、宮城県の柴田郡川崎村(現・川崎町)に移り住んだ。敗戦翌年の晩秋である。
入植地は小高い山だった。ほとんど手つかずの雑木林の中に、生木を組み合わせ、笹竹で囲んだだけの掘っ立て小屋があった。それが入植者用の家だった。
ドラム缶で風呂を作った。夫の吉沢伊賀とともに、きく子は子どもをあやしながら慣れない鍬を持った。地主から借りた土地である。開墾している間は当然、作物は実らない。もともと住んでいる農家から日々の糧を分けてもらった。
しかし、「農地改革」によって、国は地主たちから、入植者が耕している土地を強制買収し、小作人である入植者に売り渡した。
「入植した私たちは、もとの地主たちから目の敵にされ、食べ物も分けてもらえなくなりました」。
ナズナやオオバコなどの雑草、カエルも食べた。
「ヘビも上等なほうですよ。木の中に住む虫の幼虫まで食べました」。
ある日、夫が「久しぶりの肉だ」と言って何かを両手で包んで大事に持って帰ってきた。煮込んでおいしく食べた後、モグラの肉だと教えられた。
「入植者のなかには、貸し付けられた種芋や小豆の種まで食べてしまった人もいました。他に食べ物がなかったんです」
ようやく整えた畑で、竹の根を焼いた灰を肥料にして、粟やジャガイモを育てた。乳牛飼育も始めた。入植から5年後、初めて家に小さな電灯がついた。
『この土あるかぎり』 ①
創価学会が総力を挙げて取り組んだ、合計100巻に及ぶ反戦出版。そのなかに『この土あるかぎり』と題された一冊がある。同書には敗戦の四ヶ月前、東京南部で大空襲を受け、その後、農村に生きた女性の手記が載っている。
吉沢きく子(宮城県・川崎町、支部副婦人部長)は同書を手にしながら、「戦争の後は、毎日毎日、食べることが戦争のようなものでしたよ」と語る。当時、京急蒲田駅の隣、雑色駅の近くに住んでいた。
「今から思うと、池田先生のご実家も近かったんですね。海苔づくりの風景もよく覚えています。親戚の海苔屋さんで、海苔簀のかたづけや海苔のゴミ取りを手伝ってお駄賃をもらったこともありました」。
蒲田・大森方面が大空襲に遭った日、吉沢の家はいつものように電灯や窓を黒い布で覆っていた。灯火管制である。サイレンが鳴ると、吉沢は一歳半の長男を背負って家を飛び出した。
「暗いほう、暗いほうへ夢中で走りました」。木々の茂る八幡神社でしばらく隠れ、多摩川にかかる六郷橋へ早足で向かった。
「逃げる途中、『わーっ』という叫び声が聞こえましてね。その人の背中が赤く燃えていました」。吉沢は大正生まれの94歳である。話が戦争体験に及ぶと、語気が熱を帯びた。
この大空襲の時、池田もまた大田区内のおばの家に住んでいた。防空壕から飛び出し、東京湾を目指した。その時の体験を池田は、何度も語り、記している。
「焼夷弾が、大雨のように降ってきた。あの方面から、この地から、火の手が上がり、狂火のごとく燃え上がった。あたり一面、あっという間に、猛火の海である。その大火炎地獄の中を、みなが必死に逃げまどった。
親が幼い子を見失い、子が老いた親を助け遅れ・・・・・これがこの世の光景かと、心で泣いた人、心で苦しんだ人、夢かと思った人ばかりであったに違いない。
その阿鼻叫喚は今も、書くには、あまりに、つらすぎる。
一夜明けてみると、あたりは丸焼けだった。羽田の飛行場を残して、街はまったくの灰燼(かいじん)に帰していた。
懐かしき尋常小学校も、国民学校も、すべて空襲で焼けてしまった」(2001年4月8日付「聖教新聞」)
「何かをしなければ。何ができるのか」 ②
池田の師、戸田城聖は、敗戦直後の食糧難について鋭く指摘している。
「日本は、瑞穂の国じゃないか!飢饉なんか、ないはずの国じゃないのか!」
「農村を、長年、下に見ていた都会人の慢心だよ。食べ物がなくなって、初めて、ずっと下に見ていた農村に頭を下げて、都会人が買い出しに行くのだ。農村の大切さがやっとわかったのだ」
この戸田の言葉を継ぎ、池田は先のエッセーで訴えている。──国内で不足する分は、世界から補っているが、これでは、「都市」が「日本」に、「農村」が「世界」に置きかわっただけである。戸田先生が鋭く喝破された、「農村を『下』に 見る」体質は、今も全く変わっていないのではなかろうか──。
「何かをしなければ。何ができるのか」 ①
厳しい飢えは敗戦の前から始まっていた。米の配給は、1日で一人当たり2合1勺(約300グラム)。代用品が配給されることも多く、大豆、澱粉(でんぷん)、イモ、イモのツル、さらに「豚も食わない」と言われた「冠水イモ」(=水に浸かったイモ)まで配られた。それらの配給すら、よく滞った。
タケノコの皮をはぐように着物や家財を少しずつ手放し、物々交換で食いつなぐ「タケノコ生活」という言葉も生まれた。「とにかく、食べるものがなかった」──池田は農漁業を営む友に贈ったエッセーで、こう記している。
「あの暗い敗戦の年、『瑞穂の国』であるべき日本列島は大凶作であった。とにかく、食べるものがなかった。人間でなくして、畜生の如く、その日その日を食べることに狂奔していた。
情けなかった。人間として生まれてきたくなかった。皆の心が、そういう気持ちであったに違いない。『餓死対策』を政府に要望する国民大会が行われたこともあった。皆、痩せ細っていた。哀れであった」(2005年2月9日付「聖教新聞」)
「瑞穂の国」(=瑞々(みずみず)しい稲穂の実る国)とは日本の美称である。その瑞穂の国は無謀な戦争に敗れ、時の大蔵大臣が「このままいったら来年は1000万人が餓死するだろう」と語るほどの未曽有の惨状に陥ったのである。
敗戦の年の大凶作は「人災」でもあった。田畑を耕す働き手を軍に奪われてしまえば、作物が十分に育つはずもなかった。敗戦から2年経った1947年(昭和22年)、食糧難を象徴する出来事が起きている。東京地裁判事の山口良忠が栄養失調で亡くなったのだ。人を裁く裁判官が「闇市」で売り買いされる食べものを口にするわけにはいかない、という信条をかたくなに守り、国の配給のみで生活を続けた末の死だった。配給だけでは生き延びることのできない窮状がしばらく続いた。
後年、池田は千葉で行われた会合の席上、幕張の思い出を通して、こう語っている。
「当時、私は思った。戦争が憎い。平和でなければならない。だれが、いったい何のために、戦争を起こすのか。庶民は戦争など欲していない。幸福に暮らしたいと願っている。それなのに、大勢の人が地獄の苦しみを味わっている。何かをしなければならない。何ができるのか──これが、私の17歳の心情であった。
そして恩師との出会い。牧口先生は、戦争のために獄死された。戸田先生は、2年間、牢に入られた。その方の言うことなら信じられる──それで、私は19歳で入信した」(1991年11月17日付「聖教新聞」)