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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「地域の灯台」に ③


 「地域の灯台たれ」───この指針の由来は1977年(昭和52年)、東京で開かれた第一回農村部勤行会である(2月17日。団地部と合同で開催)。農村部が発足して4年経っていたが、北海道から九州までのメンバーが一堂に会するのは初めてだった。満を持して開催した。

 前日まで、池田が出席する予定は組まれていなかった。当日、出席を決めた。特別に用意した原稿はなかった。短い話の中に、農業への思いを込めた。その内容がやがて広く伝わり、農漁業に携わる同志の指針となっていく。


  ───農村地域が、やがて大いなる脚光を浴びていくことは、現代の要請であるといってよい。ゆえに、盤石なる一家を築き上げ、その地域の確固たる灯台になっていくことが大事である。

 人数、勢力のいかんではない。何十年、何百年先の展望のうえからも、妙法下種の”当体”であり、”灯台”としての使命を果たしていくとき、それは壮大にして根源的な広布の礎となっていくのである。

 こうした観点から、私は”下種の灯台” ”地域の灯台” ”学会の灯台”たれ、と申し上げておきたい───。

    「地域の灯台」に ②


 父の畑は水道も通っておらず、軽トラックで水を運ぶ作業から始めた。ある年は台風でハウスが全滅した。佐久川は、苦労を重ねる渦中で読んだ池田の指導に、それまでの人生観を一変させられたという。

 「私が信心を始める8年前の、農村部への指導です。池田先生は私たちに『下種の灯台』『地域の灯台』『学会の灯台』になれ、とおっしゃっていたんです」。「下種」とは、「仏法の種」を相手の生命に植える、という意味である。

 「沖縄に戻ってから始めて読んで、うちのような貧乏農家でもこんな存在になれるのか、と。他にも先生のスピーチを通して『農業は国の基である』と教わりました。私は畑を耕し始めても、まだどこかで農業を下に見て、恥ずかしいと思っていたんですね。それが吹き飛びました」

 辺野古に土地を借りて、キュウリのハウス栽培に打ち込んできた。

 キュウリの収穫期は約3ヶ月と長い。力量によって生産量に大きな差が出る。

「キュウリは連作障害を起こすので、有機肥料のバランスを考えないと土がダメになります」。

深夜まで研究を重ねた。昼間、ハウスの畝で寝てしまい、通りかかった近所の知り合いから死んでしまったと勘違いされたこともある。

 今はゴーヤやメロン、スイカも育てている。4人の子どもを全員、農業収入だけで大学に進学させることができた。

「辺野古の星空はきれいですよ。子育ても落ち着いて、最近やっと星空を眺める余裕が出てきました」と妻の幸子が語る。名護の久志地域で毎年のようにキュウリの生産量第一位になり、県の野菜品評会でも金賞に輝いた。

 2年前には県の指導農業士に選ばれた。その年の秋、今帰仁村で創価学会の「沖縄農漁村ルネサンス体験主張大会」が開かれた。村長をはじめ多くの来賓を前にして、佐久川が登壇し、どうしても嫌だった農業の世界で見事に結果を出した半生を語った。

「あの日、長年信心に反対だったお義母さんが初めて学会の会合に来てくれて、『よかったよ』って言ってくれたんです」(幸子)。


   「地域の灯台」に ①


 作物の作り手が、もっと豊かになれるように──その思いの詰まった、池田の一言がある。

「あの池田先生の言葉がなかったら、私の考えは変わらなかったと思います」。沖縄の名護に住む佐久川和雄(ブロック長)が語る。

 佐久川の父、昌英は名護で露地野菜やサトウキビを作っていた。

「カラビサ(=裸足)で肥の入った桶を担ぎ、馬を歩かせて畑に鍬を入れていました。子どもの目には汚くて、つらくて、親父の仕事が嫌で嫌で仕方なかったんです」。

 佐久川は6人きょうだいの次男だった。農業だけはどうしてもやりたくなかった。集団就職で上京したのは、沖縄が本土復帰する前年(1971年)である。中古のダンプカーを買い、埋め立て地の「夢の島」をはじめ工事現場の運転手として働いた。

 父の昌英が、がんで倒れたのは、上京して10年目だった。

「幸い早期発見でしたが、父は体調を崩して以前のようには働けなくなりました」。

父が耕し続けた畑がだんだん荒れ地になっていく、と伝え聞いた。胸を痛めながらダンプカーハンドルを握り続けた。

 数年後、妻の幸子(支部副婦人部長)と出会った。

「妻も沖縄出身です。バリバリの学会女子部で、デートで座談会に連れて行かれました」と笑う。最初は反発したが、「生き方を教える仏法なのよ」という一言が胸に残った。

「親孝行を一つもしないまま父を死なせたくなかった。自分の生き方を変えられないか。そう思って信心をはじめたんです」。

 1985年(昭和60年)に入会した佐久川は、幸子と結婚し、やがて沖縄に戻った。父の後を継ぎ、「それだけは嫌だった」農家として働くためである。

   『この土あるかぎり』 ③


 創価学会に巡りあったのは1957年(昭和32年)である。

「戦前からこの地域に住んでいた農家の奥さんが『この信心で必ず幸せになれるのよ』と親身に語ってくれたんです。座談会に、折伏に、8キロの山道も歩きました」。

最初は反対していた夫も信心を始め、黙々と弘教に歩いた。

 東北を訪問した池田との記念撮影会があり、言葉を交わす機会があった。

「私が『羽田出身です』と伝えると、『そうか。僕はは梅屋敷の近くだったよ』と言われ、励ましていただきました」。

 かつての雑木林は今、静かな田園風景になっている。

「苦労しましたが、夫と一緒に土に生きてきてよかった。しみじみ思います。三人の子どもたちが全員信心を継いでくれたことが、何よりうれしいですよ」と吉沢は笑った。


 「農業は神聖な仕事である」と池田は語る(2004年5月9日付「聖教新聞」)。

 「都会は農村のおかげで生きていける。いざとなれば農村は都会がなくても生きていけるが、都会はそうはいかない。

 だから都会は農村に感謝し、報恩しなければならないはずだが、反対に都会のほうがいばっている。作物が『もっと豊かに穫れるように』と願う人はいても、それを育てる人が、もっと豊かになれるようにと祈る人は少ない」