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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  危機をチャンスに変えたきっかけ ②


 1953年(同28年)に学会に入っていた宮西の両親は、学会活動に励みながら、露地野菜も取り入れ、休みなく働いた。しかしうまくいかなかった。宮西は、思い切って肉牛の飼育ができないか、と考えた。

「肉の消費は今後必ず増えるはずだ、と予想したんです。家族で話し合い、私はそれまで勤めていた農協を辞めて、両親と一緒に牛の飼育を始めました」。

 「牛については『モーと鳴く』ことくらいしか知らない」という、ずぶの素人からのスタートだった。牛舎を作り、飼料を工面するため、水田を担保に入れた。エサの与え方、カロリーの計算、病気の治療・・・・・不安を打ち消すために、必死で勉強を重ねた。

 1年が経った。どの牛も、他の農家の牛より一回りは痩せていた。

 2年目には7頭も死なせてしまった。

「どうしても病気や体調不良を見つけるのが遅れてしまった。風邪や肺炎を見つけてやっとの思いで治しても、肉がつきませんでした」。

 3年目。家族にとって背水の陣ともいえる年に、「学会本部で農村部の会合がある。全国から集まる」と連絡があった。それが第一回の農村部勤行会だった。

「あの先生との出会いこそ私の転機です。『絶対にこの場所で結果を出す』と誓いました」。

 

 宮西は唱題を重ねるうちに「一つの単純なこと」に気づいたという。

「それまでは『どの牛も同じや』と思っていたんです。通り一篇で仕事をやろうとしていた。でも『牛は生き物なんや。一頭一頭、違う。よく知ってあげないといかんのや』と気づいたんです」。

 仕事の姿勢が少しずつ変わった。朝、牛舎に入ると「おはよう」「元気か」と一頭ずつ丁寧に声をかけた。妻の英子(支部副婦人部長)は牛舎のすべての牛がエサを何キロ食べ、何キロ残したかを記録し続けた。

「これを一日も欠かさず365日繰り返すと、顔色、毛のツヤ、食べたエサの量を見れば牛の体調がわかるようになりました」。

すべての牛の体調が安定するまで10年ほどかかった。


 1991年(平成3年)、肉牛の輸入が自由化され、業界に激震が走った。撤退する同業者もいたが、宮西は自由化をチャンスととらえ、逆に牛舎を増やした。新しい糞尿処理施設も早々に導入した。現在は3ヘクタールの水田と150頭の肉牛飼育を営む。昨年、県の肉牛経営者協議会から「肉質優秀者」の表彰を受けるまでに成長した。

 自治会の区長や営農部長、共済組合の評価委員なども務め、地域にとってなくてはならない存在になっている。

「今は、牛舎にいる150頭の顔を見分けられますよ」と宮西夫妻は語る。

  危機をチャンスに変えたきっかけ ①


 滋賀の宮西民雄(地区部長)は「あの勤行会の頃が一番苦しく、どん底でした」と振り返る。

「『地域の灯台たれ』という先生の言葉がなかったら、今日の自分はありません」。

 

 戦後、国が進める農業近代化のモデル事業として、琵琶湖最大の内湖である大中の湖が干拓された。干拓地にはきれいに区画された水田やコンクリートの住宅が整然と並んだ。

 

 1966年(昭和41年)、宮西の両親は新天地に希望を抱き、216件の一軒として大中の湖の干拓地に入植した。

 「入植する前は、大型機械を導入するから稲作はずいぶん楽になると、と言われていたのですが、入植してわずか4年後、国による米の生産調整が始まり、減反を余儀なくされました」。

それは宮西が農業高校を卒業してすぐのことだった。

   それぞれの地に「灯台」が立った ②


 埼玉の小林修(副県長)は、勤行会の会場の中央前方にいた。間近で池田の指導に触れて「体中に電流が走ったような気がした」と振り返る。じつは小林は当時、父から受け継いだ農業経営をあきらめかけていた。近隣で工業団地の建設や宅地化が進み、やむをえず農地を一部処分し、苦境をしのぐために建設の仕事を兼業していた。

 「農業はもう無理かなと思っていた時です。池田先生は農業者の苦労をわかったうえで、『地域の灯台』という指針のを示された。『これが俺の使命だ』と決心しました」

 小林は兼業を辞め、農業に専念した。新しい作物の導入を仲間に呼びかけ、ブロッコリー、里芋、モロヘイヤなどの研究会をつくった。さらに新規の販売ルートを提案。多くの人々の協力を得て、農産物直売場の開設までこぎつけた。地元小学校の授業で、稲作の体験学習も担当し、市の農業委員も務めた。84歳の今も畑に立ち続けている。


 「共済組合に、PTAに・・・・・地域の役職はだいたい全部やらせてもらいました」。栃木の高根博(総栃木農魚光部長)はそう語る。

 栃木・塩谷郡の農家の長男として生まれた。入会は19歳である。

「病人が多く、暗い雰囲気の家庭でした。それを変えたかった。訪問してくれた男子部の方の明るさに、何ともいえない魅力を感じたのです」。

 農作業を終えて男子部の会合に出かけるようになると、親戚や友人から「何を始めたのか」と白い目で見られた。

「農家にはお祭りや行事がつきものでしょう。手伝えることと手伝えないことがあるという信条は、なかなか理解してもらえなかった。中傷は、ひどいものでした」。隣近所とどうつきあっていくのか。悩み続けていた。

 「先生はあの勤行会で『地域の灯台たれ』と言われました。多くの参加者と同じように、私もあの一言がぐさっと刺さりました。そういう発想そのものがなかったですから。自分の住んでいる地域で信頼されてこそ学会の農村部なんだ、と納得できました」

 それにも増して、仕事と学会活動に力を注いだ。1990年(平成2年)に池田が栃木を訪れた際は、矢板地域の学会の圏長として迎えた。

 また、土地改良区(水土里ネット)の理事や自治会長をはじめ、地元の役職を打診されれば可能なかぎり引き受けるようにしてきた。

「農家であれば、自治会とか農協とか、黙っていても何か役割が回ってきます。しかし皆、遠慮して、やりたがる人は少ない。だからこそ、腹を決めて引き受ければ、地域の役に立つことができると思っています」。

 本業では、近隣から農作業の委託をいくつも受けてきた。高根が耕している水田は今、もともとの2.5ヘクタールから10ヘクタールにまで広がっている。

   それぞれの地に「灯台」が立った ①


 山梨から参加した坂田一郎(本部壮年部長)は33歳だった。日本屈指のブドウの産地、甲州市勝沼町で果樹農家を営む四代目である。

「漠然とですが、後継者としてなにか新しい挑戦をしたい、と思っていました」。

 米、ネギ、レンコン、リンゴ、大根、ジャガイモ・・・・・・参加者たちがそれぞれ自慢の作物を持ち寄った勤行会の席上、池田が発した「地域の灯台たれ」の一言が「胸に突き刺さった」と語る。「36年経ちましたが、あの日の光景は今も鮮やかです」。

 坂田が信心を始めたきっかけは、10年ほど前に山梨を襲った台風だった。

「昭和42年の台風がひどくて、それまで経験したことのない不作に見舞われました。その直後、大黒柱の父が脳溢血で倒れ、私も耳の持病が悪化して激痛が走り、ほとんど聞こえない状態になったんです」。

 男子部の先輩は「未来の結果を知ろうと思うなら、現在の原因をみよ」(趣意)という仏典の一節を通して励ましてくれた。「『今いる場所で勝つのが信心だ』と教わったんです」。

学会活動に励むなか、徐々に収穫率を持ち直し、気がつけば耳の持病も治っていた。

 池田が出席した勤行会の後、地元に戻った坂田は、50人近い農業従事者が集まる研究会のの指導部長に就いた。知恵を出し合って土壌や堆肥、苗の研究を重ねた。そうして改良を加えた「巨峰」と「甲斐路」の苗は、長年にわたり近隣の農家で広く使われてきた。

 勝沼ぶどう郷観光協会の役員も務め、地域の活性化に尽くしてきた。息子の武史(男子部員)とともに営む観光農園は今、じつに三五品種ものブドウ狩りが楽しめるようになり、シーズンには首都圏をはじめ各地から訪れる客足が絶えない。