ましたm(__)m
今年もどうぞよろしくお願いいたします
m(__)m
年末は体調不良で皆さんにご心配をおかけ
しましたが、何とか掃除等片付けることが
できました。
今日は帰省した息子と共に家族揃って、新
年勤行会に参加出来ました。
皆さんのおかげでよい年を迎えることがで
き感謝の思いで一杯です。
今年1年が良い年でありますように!
Android携帯からの投稿
読者の皆さん、いつもありがとうございます<m(__)m>
今年一年ありがとうございました<m(__)m>
今日で、民衆こそ王者ー池田大作とその時代
「地域の灯台」──農漁業に生きる(2)の連載が
終了しました。
来年からは、農漁業に生きる(3)を連載します。
体調不良のため連載の更新がなかなかできず、
皆さんにご迷惑をかけてしまい、申し訳ありません
でした <m(__)m>
では読者のみなさん、良いお年をお迎えください。
オリーブの島で ②
加代子はこれまでも家族で食べる分の野菜を小さな畑で作ってきたが、オリーブは初めてだった。そもそも國夫は鍬一つ持ったことがない。オリーブの加工会社で働いている長男の秀浩(副支部長)は「わからないことは聞いてくれ」と言ってくれるが、「何がわからないかがわからない」とことからのスタートだった。
「紫色に熟した実からオイルを取るにしても、青い実のまま食用の『新漬け』にするにしても、人の口に入るものだから、一切、除草剤や農薬を使わない主義で始めました」
草取りも虫取りもすべて自分の手でやる。
「周りの人から『オリーブを植えた後も毎日畑に来るのはあんたたちだけやな』とからかわれるほどでした」(加代子)。
しかし、その誠実な仕事ぶりを、見る人は見ていた。オリーブ栽培を始めて3年目、初めて実がなった。やがて次々と「うちの畑も借りてくれ」と言われるようになった。今では島の七カ所、合計1ヘクタールの畑で、ミッション、マンザニロ、ルッカなど20種類以上の品種、合計3000本のオリーブを育てている。島の個人経営としては最大の規模である。
「この畑は全部借りたものだから、石ころ一つ、自分のものじゃないんですよ」。國夫は額の汗をぬぐいながら笑う。
「目に見える収入が毎日あるわけじゃないし、毎日油断できない。しかし、目標をもって取り組めば、これほど楽しい仕事はない」
土居夫妻は昨年も「ロサンゼルス国際エキストラバージンオリーブオイル品評会」に出品し、二年連続の「銀賞」に輝いた。
そして本年三月、ついに「金賞」を獲得した。日本で「金賞」に入賞したのは小豆島から出品した6つの企業のみであり、土居の受賞は、個人経営の農園として初めての快挙だった。
「『自分の生活だけで精一杯』だったのに、気づけば『島のために貢献できる』境涯にしていただいた」と妻の加代子は語る。
「あの日、小豆島会館で池田先生は『あとから振り返ったら、何もかも所願満足の人生になっている』と言われました。そのとおりになりました」。
「地域の灯台」として生きる群像。さらに追う。
オリーブの島で ①
ここ数年で新たに農業を始めた人にも、池田の指針は息づいている。
香川の高松港から高速艇で30分。瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、坪井栄の小説『二十四の瞳』の舞台としても知られる。地中海のように温暖で雨の少ない気候を生かしたオリーブ栽培は、日本で最も早く、その歴史は100年を超える。
土居國夫(副支部長)と妻の加代子(婦人部副白ゆり長)は一昨年の6月、カリフォルニアで行われたオリーブオイルの国際品評会に初めて出品した。オリーブ農家として6年目の「若手」ながら、出品された23カ国約600点の中から見事「銀賞」に輝いた。
土居國夫は半世紀以上、小豆島の路線バスや町役場の福祉バスの運転手を務めてきた。入会は1960年(昭和35年)、15歳になる年だった。
「呉服の行商をしていた山本フジエさんから両親が折伏されたんです」
大阪出身の父は表具職人だったが、島では仕事が少なかった。臨時の土木作業をしても家族が食べていくには足りず、経済苦が続いていた。
まず土居と母が入会した。「いまよりも苦しい生活なんてないんだから、この信心をやってみればいいじゃないか」。反対していた父も、1年後、土居の言葉に信心を始めた。
やがて土居は根田徳光(副県長)をはじめ男子部の先輩とともに、島の各地を弘教に歩くようになった。周囲からは「おい、『日蓮さん』が歩きよるぞ」と笑われた。
「文字通り、村八分にあいました。5年ほど続きましたね」。旧習深い地域にあって、言い尽くせない苦労を味わった。
池田が小豆島を初めて訪れたのは、67年(同42年)の9月だった。同島で初めての会館建設が検討されていた。
池田の投宿したホテルには、九州出身の根田徳光が調理師として勤めていた。
「3年ほど働いたので、そろそろ故郷に戻ろうかと迷っていた時に、先生をお迎えしたのです」。
帰途に就く池田を玄関まで見送りに行った時、「根田君だね、しっかり頑張りなさい」と励まされた。「あの一言で『俺はこの島に骨を埋めよう』と腹が決まりました」。
この時、港へ見送りに行ったが間に合わなかった土居國夫のもとにも、池田から念珠が届いている。
土居は翌年、加代子と結婚し、三児に恵まれたが、両親との同居生活は赤貧を極めた。
「子どもに食べさせるだけで精一杯。給料日前は家内と二人で、一枚の食パンを半分にして、水を飲みながら食べました」。
家計を助けるために、加代子も路線バスの車掌として働き始めた。
池田の二度目の来島は、78年(同53年)7月だった。土居は、池田の乗った船が土庄港に入る姿を乗務中のバスの車窓から見つけた。仕事が終わるや小豆島会館に夫婦で駆けつけた。
11年ぶりの来島である。池田は集まってきた学会員に語りかけた。
「目先の現象に左右されることなく、何があっても題目を唱えながら前に進み、あとから振り返ってみたなら、何もかも所願満足であったといえるような、お一人お一人であってほしい」
島に生きる同志にとって、人生の原点となる出会いだった。
不景気のあおりを受け、加代子はバス事務所、そうめんの加工所、観光ホテルなど、次々と転職せざるをえなかった。しかし、生活は少しずつ安定していった。國夫も自治会長など地域の役員を引き受けながら、懸命に働いた。
先述の根田徳光から、ある日、意外な話を持ちかけられた。
「じつは畑の雑草を抜く時間がなくて、周囲に迷惑をかけてしまっている。土居さんが自由に使ってくれないか」。
加代子の定年が近づいていた。夫婦で相談し、町をあげて推進しているオリーブを植えることにした。