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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「白米は命なり」 ①


 渡部義彦(会津若松市、総県農魚光部長)は、会津若松市で6代続く稲作農家である。2011年(平成23年)の3月14日、福島第一原子力発電所三号機の水素爆発をテレビで見た時の衝撃を、はっきり覚えている。

 「福島の米作りを存続させるには、直ちに全量検査と全品表示を行うしかない。そう覚悟しました」


 渡部はもともと、神奈川の外食産業向けのコンサルタント会社で働いていた。転機は1993年(平成5年)の大冷害だった。「平成の米騒動」ともいわれた事態は、農家の長男としてほのかに抱いていた「大規模な稲作」への思いに火をつけた。後述するが、この年の凶作は創価学会の「体験主張大会」運動にも大きな影響を与えた。

 二年後、福島研修道場を訪れた池田は、縄文時代からの日本列島の歴史をひもとき「東北は決して遅れた辺地などではなく、先駆けて繁栄した”開かれた天地”だった」と語っている。渡部はその時の指導を心に刻んだ。

 「先生は参加者に、東北にとっては『地の利』が大切だよと言われました。この福島で、できる限りのことををやろうと決心しました」

 その年、会津にUターンし、やるからには「創業者」の気概で取り組むと決めた。技術も経験もゼロに等しく、失敗ばかりのスタートだった。

「妻と一緒に祈りながら7年間の営農計画を立てました」。

東北をはじめ長野、福井、新潟などの優れた農家を訪れ、貪欲に学んだ。

 作るコ米の品種を「ミルキークイーン」に絞り、産地直送の通信販売を成功させた。また、腎臓病の人口透析患者でも安心して口にできる「医療用の米」を手がけた。NPO(民間非営利組織)を立ち上げ、東北でただ一人の低タンパク米の種子農家になった。

 「当時、どんなに良質な低タンパク米を作っても、法律上、米袋には『その他』としか表示できなかった。それでは安心して買ってもらえず、市場も価格も安定しないので、法改正を粘り強く訴えました」。

その結果、福島県では「民間でも産地品種銘柄の表示ができる」ようになり、「農民が法律を変えた」と驚かれた。

 渡部は2004年(平成10年)、「農漁村ルネサンス体験主張大会」に登壇している。二ヘクタールから始めた稲作を17ヘクタールに広げたころだった。

 さらに4年後には総理大臣の諮問機関である「規制改革会議」の委員に選ばれた。農業改革をめぐって提出した意見書の末尾には、他の文字よりも大きな字で「『白米は白米とというだけでなく、生命、いのちそのものである』との考えに立つべきものと考えている」と書き込んだ。日蓮の遺文にある「白米は白米にあらず・すなはち命なり」という一節をもとにした。



   電話口で聴いた「変毒為薬」 ②


 「じつはあの10年前にも、北海道と宮崎で感染がありました。その時はすぐ収まったので、『今回も大丈夫だ』と思った人が多かったのではないか」。

そう語る佐々木は、高校を卒業してから両親のもとで働き始めた。種付けから出産、育成、出荷まで行う一貫経営で、母豚200頭、子豚2000頭を飼育している。

 畜舎で一頭でも感染すれば、全頭処分しなければならない。そればかりでなく、風評被害もすさまじかった。県内の多くのイベントや大会が延期され、観光客は姿を消した。市町村の境界には消毒ポイントが設けられた。サッカーや高校野球の試合は「一人も一般客のいない」球場や競技場で行われた。

 「何の関係もない人まで巻き込まれました。あるスポーツ大会で子どもたちが遠征する時、『宮崎出身だから』というだけの理由で受け入れを拒まれたこともあった」

 佐々木は延岡市や日向市、高千穂町などを含む地域の学会の男子部長だった。

「同志に会えず、幹部としての使命も果たせない。豚の様子を見ながら、恐れと戦う毎日でした」。

体調が優れない豚を見るたびに「もしや」と心を痛めた。


「テレビやネット情報を見ると家族の気持ちが沈みました。心の支えは、電話で教えてもらった池田先生の励ましでした。あの日、たくさんの人からファックスもいただいた。感謝の思いは消えません。

 8月27日、口蹄疫の「終息宣言」を迎えた。感染の発表から4か月以上がたっていた。

「県内の約30万頭が犠牲になりました。多くの畜産農家が苦しみのどん底を味わいました」。

被害を受けた農家の半数以上が復帰したが、再開できない人々も多い。佐々木は今、地元の農協の青年部長消防団員も務め、二度と悲劇を繰り返さないよう、消毒対策も含めて万全の注意を払っている。


 こうした体験を2012年(平成24年)、学会の「農漁村ルネサンス体験主張大会」で発表した。全国の会館で放映され、約40万人が耳を傾けた。

 延岡の会館にも、地域の名士をはじめ多くの農漁業関係者が訪れた。ある組合員から「本当は俺たちがやらんといかんことを、学会がやってくれとるなあ」と声をかけられたことが、佐々木にとって何よりもうれしかった。

  電話口で聴いた「変毒為薬」 ①


 「非常時事態宣言」の発令から4日後の5月22日。佐々木の携帯電話が鳴った。「池田先生が書いてくださったよ!」電話の主は、佐々木の家に聖教新聞が届かなくなっていたことを知る学会男子部の先輩だった。この日、同紙に池田大作のエッセーが掲載された。先輩はその文面を、一言ずつ電話口で読み上げてくれた。


 ───大好きな大好きな宮崎は、その名も「日向」すなわち「太陽の宝土」である。太陽は何ものにも侵されない。いかなる闇も必ず打ち破り、万物を蘇えらせる───

 ───尊き皆様方の「変毒為薬」の勝鬨の轟く日を、深く深く祈念してやまない───


 この「変毒為薬」(=毒を変じて薬と為す)とは、信仰によって、自分の受けた苦しみ(=毒)を功徳(=薬)へと変えていく仏法の考え方である。

 口蹄疫の広がるスピードは想像を超えていた。宮崎県が三頭の牛に感染の疑いがあると公表したのは4月20日。一週間後には国内初となる豚への感染が確認された。ゴールディンウイークが明け、しばらくすると、殺処分の対象は6万頭を超えていた。感染していなくても、感染を食い止めるために殺処分せざるをえない家畜もいた。


 宮崎の人々が絶望に襲われ、仕事の誇りを奪われ、不安に苛まれていた時だった。佐々木はこぼれる涙を拭きながら、電話越しに池田からのメッセージを聴き続けた。

自然と共に生きる厳しさと喜びを語る運動は、


1970年代に東北と九州で始まり、


今日では、全国で数十万人が参加する


「農漁村ルネサンス体験主張大会」に発展。


池田は「国と生命を支える最も大事な仕事」に


従事する青年を「泥だらけの王様」と讃え、


その苦労に寄り添い、励ましてきた。


大冷害、家畜の疫病、原発事故──


農漁業を取り巻く未曽有の困難に、


人々は、なぜ立ち向かうことができたのか。


 「あの時ばかりは『もうダメか』と覚悟を決めました」。

宮崎で養豚業を営む佐々木敬一(延岡市、県青年部長)は、三年前を静かに振り返る。ウイルス性の伝染病「口蹄疫」が宮崎県下を襲ったのは、2010(平成22年)の春だった。

 家畜への感染が爆発的に広がった。5月18日、宮崎県は「非常事態宣言」を発令。不要な外出を自粛するよう求めた。幸い、佐々木の住む周辺で感染はなかったが、万が一を考えて家族は家から一歩も出ないようにした。畜産業者も含め、外からの出入りも一切控えてもらった。創価学会の座談会も開けなくなり、聖教新聞の配達も見合わせざるをえなくなった。