『この土あるかぎり』 ①
創価学会が総力を挙げて取り組んだ、合計100巻に及ぶ反戦出版。そのなかに『この土あるかぎり』と題された一冊がある。同書には敗戦の四ヶ月前、東京南部で大空襲を受け、その後、農村に生きた女性の手記が載っている。
吉沢きく子(宮城県・川崎町、支部副婦人部長)は同書を手にしながら、「戦争の後は、毎日毎日、食べることが戦争のようなものでしたよ」と語る。当時、京急蒲田駅の隣、雑色駅の近くに住んでいた。
「今から思うと、池田先生のご実家も近かったんですね。海苔づくりの風景もよく覚えています。親戚の海苔屋さんで、海苔簀のかたづけや海苔のゴミ取りを手伝ってお駄賃をもらったこともありました」。
蒲田・大森方面が大空襲に遭った日、吉沢の家はいつものように電灯や窓を黒い布で覆っていた。灯火管制である。サイレンが鳴ると、吉沢は一歳半の長男を背負って家を飛び出した。
「暗いほう、暗いほうへ夢中で走りました」。木々の茂る八幡神社でしばらく隠れ、多摩川にかかる六郷橋へ早足で向かった。
「逃げる途中、『わーっ』という叫び声が聞こえましてね。その人の背中が赤く燃えていました」。吉沢は大正生まれの94歳である。話が戦争体験に及ぶと、語気が熱を帯びた。
この大空襲の時、池田もまた大田区内のおばの家に住んでいた。防空壕から飛び出し、東京湾を目指した。その時の体験を池田は、何度も語り、記している。
「焼夷弾が、大雨のように降ってきた。あの方面から、この地から、火の手が上がり、狂火のごとく燃え上がった。あたり一面、あっという間に、猛火の海である。その大火炎地獄の中を、みなが必死に逃げまどった。
親が幼い子を見失い、子が老いた親を助け遅れ・・・・・これがこの世の光景かと、心で泣いた人、心で苦しんだ人、夢かと思った人ばかりであったに違いない。
その阿鼻叫喚は今も、書くには、あまりに、つらすぎる。
一夜明けてみると、あたりは丸焼けだった。羽田の飛行場を残して、街はまったくの灰燼(かいじん)に帰していた。
懐かしき尋常小学校も、国民学校も、すべて空襲で焼けてしまった」(2001年4月8日付「聖教新聞」)