地を離れて人なし
1973年(昭和48年)10月に結成された農村部。これまでにない組織であり、暗中模索のスタートだった。
当時の幹部は「自分にとって、農業のことをほとんど知らないのが、かえってよかったのかもしれない。とにかく『悩みをじっくり聞く』以外にないから、皆さんの声を、余計な思い込みなく聞けた」と振り返る。
まず山形、茨城、長野、鳥取、宮崎の五県をモデル県に定め、現場を歩いた。それは「地を離れて人なし」という言葉を実感する日々だった。地域によって抱える悩みは千差万別である。いっぽうで、機械化の不安や後継者問題など、共通の悩みもあった。
しかし、最も胸に迫ったのは「生命を育む喜び」だった。耳を傾けると、無口な壮年が「稲に話しかけると、答えてくれるんよ」とつぶやく。「今、『水が欲しいよ』と言ってる。おらにはわかるんだ」と飾らない言葉を口にする。
「白米は白米にあらず・すなはち命なり」(白米一俵御書)。この日蓮の言葉を肌で感じた。
農業も漁業も、住んでいる土地がそのまま職場であり、生活の場である。ひとたび迫害を乗り越え、信頼をつかんだ人たちは「その地域にいないと困る人」になっていた。
日本中、どんな草深い辺境の地を訪ねても、そこに同志がいた。ある幹部は、学会に入ったばかりの20代の頃に池田から聞いた言葉を思い出したという。
池田が第三代会長に就任した直後、各地に続々と新しい支部が誕生した。ある支部の結成大会が終わり、池田が退場する時のことである。整理役員たちの前で池田が立ち止まった。
「青年は勉強しなさい。道は私が切り開いておくから」
鮮烈な一言だった。「あの言葉とおり、どこに行っても本当に『道』が開かれていた。各地を歩けば歩くほど『ここまで足を運ばれたのか』『ここにも先生に励まされた人がいるのか』と驚きの連続だった」。