父の病と新聞配達 ②
四月に海苔の収穫を終えると、「ヒビ抜き」など漁場のかたづけ。夏は「ヒビづくり」「葦狩り」「簀編み」など冬に向けた準備をこなした。
やがて羽田沖は埋め立てられる。大森の漁場が閉じられた頃、海苔の値段は一枚平均で7円69銭だった(1962年度)。現在は8円58銭(2012年度)。50年経って、わずか1円しか変わらない。この間、大卒の初任給が10倍を超えたことを考えると、海苔がどれほど高級品だったかがわかる。
海苔づくりの技術は見違えるほどの進歩を遂げた。しかし、自然を相手にした苦労は絶えない。
「海苔は昔から『運草』とか『ばくち草』と呼びます」と実形は語る。「取れ高も値段も天候に大きく左右される。海苔の胞子を付けた網を、いつ海に出すか。1日づれると育ち具合が変わる。『今だ』と思ったら水温が大きく変わってしまい、失敗したこともあります。今でも『一年生』の気持ちですよ」
実形は昔ながらの「浅草のり」の養殖を仲間とともに再現し、NHKの生放送で全国に紹介されたことがある。
「あの時、先生からすぐに『テレビを見たよ。私は浅草のりの本家本元なんだよ』とユーモアのこもった伝言が届きました。こんな田舎の一人の学会員にまで心を砕かれるなんて、思ってもみませんでした」。
「夕張炭労事件」の時、池田は漁師の間に伝わる「板子一枚下は地獄」という言葉を通して、「夕張の同志はもっと危険な地底で働いている。その同志がいじめられるのを、私が黙っていられるか」と語った。これもまた、冬の海に身をさらした自らの体験から絞り出された言葉だった。