満州の死線を越えて ②
「この家を何年に建てましたか?」。池田の問いに辻村が「昭和二十三年です」と答えた。「じゃあ私が入信した年だね。ずいぶん苦労なさったでしょう」。
温室から仏間に移り、懇談が続いている。「田舎の家はいいなあ」。池田はしげしげと土間や天井を眺めた。
辻村が五十九歳と知り、池田は「まだまだ若いね」と励ました。さらに「ここは本当に良い所だ。もっと土地を広げたほうがいい。手狭でしょう?」と率直に述べた。
「皆さんのことは生涯忘れません」。池田はそう言い残し、香川の地を後にした。
「あの日、先生はその場で、できあがったばかりの詩集『青年の譜』の見返しに『爛漫と 功徳の花あり 金の家』と筆を走らせ、両親に手渡されました」(娘の馬場京子。東京・日野市、婦人部副本部長)。
学会に「農村部」が誕生する一年前のことだった(現在は「農漁村部」に発展している)。こうした一人ひとりへの「励ましの糸」が、やがて農漁村の同志たちをつなぎ、「地域貢献のネットワーク」を紡ぎ出していく。
辻村夫妻はその後、地元の学会のリーダーとして弘教に歩きながら、営農に情熱を燃やし続けた。息子の彰教もアメリカで二年間の農業研修を受け、両親を支えた。県立高校の農業研修生の受け入れ先にも選ばれた。研修生たちとの交流は今も続いている。
「花を作っていたから池田先生が来てくださった。だから私は一生涯、花を作り、花の中で死んでいきたい」。それが辻村の口癖だった。大輪の菊を抱えて寝台特急で上京した際、信濃町でばったり池田と出会ったこともある。池田は急ぐ足を止めて「よく来たね」と辻村の両手を握った。
「父は九五年の生涯でしたが、ふだん言っていたとおり、亡くなる三日前まで農作業をしていました」(彰教)。
妻の喜三枝も最晩年まで紫陽花やシクラメンを育て続けた。年末には地域の一軒一軒に丹精を凝らした花々を配り、笑顔の花を咲かせた。1993年(平成5年)、義理の娘の辻村厚子は、香川を訪れた池田と懇談する機会があった。
「いつも真っ白いきれいな花を学会本部で見せていただいたね」。池田と香峯子は感謝の言葉を繰り返した。