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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    犬どもが吠えている ①


 池田はアルゼンチンの軍政時代について「わが友も、家で会合を開くことさえできない時代が続いた」と述懐している(2003年7月13日付「聖教新聞」)。同国SGI(創価学会インターナショナル)理事長を務めたヨウ・ミナガワは「許可なく3人以上集まる会合をするなという命令があった」と語る。「座談会を行う場所は全部、登録制です。それ以外の場所では何もできませんでした」。

 池田とエスキベルの会談で通訳を務めたクリスティーナ森永は、20歳過ぎまでアルゼンチンで過ごした。

「クーデターで軍政になったのは私が高校生の時です。それまでの治安がひどかったので、むしろ戒厳令で安全が保たれてよかったと感じていました」と振り返る。だがラプラタ大学の学生時代、違和感を覚えた。

「ある日系人学生がジャーナリストとして活動していたのですが、彼の母親から『息子が行方不明になった』と聞かされたのです」。その学生は二度と戻ってこなかった。

 アルゼンチンのマスコミは徹底的にコントロールされていた。エスキベルに対する国際的な評価も無視し、攻撃し続けた。そうしたニュースに十代の頃から接し続けてきた森永は「アルゼンチンにいた頃、エスキベルの印象は『秩序を乱す煽動者』でした。彼がノーベル平和賞を受賞したのは知っていましたが、十代の頃に刷り込まれた印象は強く残っていました」と語る。

 エスキベルが日本を訪れ、東京の創価学園や創価大学で講演した時、森永は通訳を務めた(1994年6月)。

 「三万人もの人々が殺戮されました。誘拐や拷問といった手段によってです」───エスキベルの話に、創価大学の学生たちは息をのんで聞き入った。

「穏やかで力強い声でした。しかも悪は許さないという芯が通っている。彼を煽動者呼ばわりする報道はウソだったと納得しました」(森永)。

 エスキベルの声が創価大学の教室に響いた。「もちろん、その三万人が一度に殺されたわけではありません。一人、二人と殺されていったのです。犠牲者が五人、10人、100人と増えていっても、社会は抗議の声をあげませんでした。そして三万人の人々が命を失ったのです」。

   五月広場の母たち ②


 白いスカーフの女性たちは毎週木曜日の午後、五月広場に集まった。立ち止まれば「集会」とみなされて逮捕される。「行方不明」になった息子の写真を自らの首に提げ、「失踪」した日付のプラカードや抗議の横断幕を掲げ、歩き続けた。エスキベルはこの「五月広場の母たち」とともに、行進の先頭に立った。

 「行方不明者」の家族たちは警察に「調べてほしい」と訴えても無視された。政党も労働組合も動けなかった。老若男女を問わず、多くの人々がエスキベルの率いる人権団体「平和と正義のための奉仕」の事務所に殺到した。

 池田は怒りを込めて記している。

「私も、この広場を車中から見た(1993年2月)。痛ましかった。軍政下、権力者は彼女たちを”狂った女ども”と、あざ笑った。どちらが狂っていたのか。そして日本のある経済関係者は『軍政のほうが治安がよくなり、軽罪も上向いて、日本は債務を返してもらえる』と放言したという。どこまで『人間』から遠ざかれば気がつくのだろうか」(同全集一二三巻)。


 創価学会婦人部は「五月広場の母たち」の闘いを「平和の文化と女性展」で取り上げ続けている。(本年6月までに全国57会場で開催され、113万人が来場している)。

 アルゼンチンの国立コマウエ大学が、東洋人として初めて池田に名誉博士号を授与した時のことである。(1999年10月)。会場の最前列に、頭を白いスカーフで覆った3人の女性が座った。「五月広場の母たち」だった。大学側が招待した。

 コマウエ大学には「命の森」と名づけられた広場がある。延々と続く記念碑に、「行方不明」にされた学生や教員の名前と命日が刻まれている。命日は推測によるものも多いという。裁判もなく、処刑した事実そのものが隠されたからだ。「民衆のための大学」を標榜するコマウエ大学は、池田への授与式に「五月広場の母たち」を招き、池田を人権の闘士として遇したのである。

 彼女たちは池田の謝辞を聞き、口々に語った。

「私たちの存在が日本という遠い国からも深く温かく理解され、守られていると実感しました」「一言一言に慰められ、勇気づけられました。息子たちが生きて戻ったような蘇生の息吹を感じました」。

  五月広場の母たち ①


 エスキベルは「国家によるテロ」に講義し、エクアドル、ブラジル、チリ、ウルグアイで当時の軍事政権に投獄され、国外追放された。彼が携わってきた無数の人権闘争の中に、今も続く世界的に名高い運動がある。

 ───1977年(昭和52年)4月、軍事政権下のアルゼンチン。首都ブエノスアイレスの「五月広場」に、14人の女性が集まった。全員、頭に白いスカーフを巻いている。そのスカーフには、「行方不明」なった家族の名前が青い糸で綴られていた。軍事政権から1年。大統領府の目の前で、彼女たちは文字通り命がけの闘いを始めようとしていた。

「76年から83年までの軍政の初期、『汚い戦争』と呼ばれた恐怖政治が続いた。反政府活動者たちはもちろん、何の関係もない人々まで、テロリストを処罰するという名目で連行された」。

池田はエスキベルと会談する半年ほど前、彼女たちが立ち向かった軍事政権の実態を「聖教新聞」に綴っている。(『池田大作全集」』第一二三巻)。

 

 「軍人たちが突然、家に乱入し、銃を突きつけて、連れていく。警察は読んでも来ない。秘密の収容所で拷問、虐殺。飛行機から生きたまま落とされたひともいる。学生定期券の発行を要求しただけで虐殺された男女高校生もいた」

 アルゼンチン全土で、3万人が「行方不明」にされた。殺された高校生たちの悲劇は「鉛筆どもの夜」という映画になり、広く知られた(邦題は「ミッドナイト・ミッシング)また、妊娠中の女性を拉致し、生まれた子を軍人に育てさせ、子を産んだ女性はそのまま「行方不明」で処理されるケースも後を絶たなかった。

エスキベル自身もパスポートを更新する際、連邦警察庁で拘束され、「行方不明」にされかけたことがあり、その様子を池田に語っている

 放っておけばエスキベルは消されてしまう。妻のアマンダは警察に出向き、「私と一緒にいた時、夫はこの場所で逮捕されたのです」「会わせなさい」と言い切った。じつはアマンダは、逮捕現場に居合わせていなかった。夫の命を救うため、あえてそう叫んだのだ。アマンダのあまりの勢いに押され、警察はエスキベルを拘束している事実を認めた。


 三万人以上が「行方不明」にされた軍事政権下のアルゼンチン。


 不自由な中でも座談会を開き、信仰を貫いた人々がいた。


 政府の杜撰な計画によって移住した日本人が未開の地で


 辛酸をなめたパラグアイでも、「命を植える」思いで弘教に歩いた人々がいた。

 厳しい環境で闘う同志を、池田は「一期一会」の覚悟で励まし続けた。


 「福運をつけ、全員が幸せになってほしい」と。


 その男は一年二カ月に及ぶ獄中生活を耐え抜いた。捕らわれたのは四十五歳の時だった。アルゼンチンのラプラタ大学で美術を教えていた。「四歩歩くのがやっと」という狭さの、「トゥーボ(管)」と呼ばれる独房に閉じ込められた。軍事政権への反逆罪に問われ、電気ショックの拷問で痛めつけられた。ガラス窓の破けた独房に身を横たえると看守が二時間ごとにやってきた。「眠らせない」ためだった。

「仲間が拷問される悲鳴や、(看守が)ひどい侮辱、罵声を浴びせながら殴る音を聞くのが最もつらかった」(自伝の『時のひとしずく』から)。


 耐え抜いた男の名はアドルフォ・ペレス=エスキベル。1980年(昭和55年)にノーベル平和賞を受賞した彫刻家である。池田大作と対談集『希望の力』(スペイン語版。邦題は『人権の世紀へのメッセージ』)を刊行した。池田と初めて会った際(1995年12月)、エスキベルのほうから「対話を続けたい」と持ちかけて完成した一冊である。