EIKOの気まぐれ闘病日記 -18ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「その微笑みをなくさないように」 ①


 SGIのスペイン語通訳として活躍したアリシア・マエモリも、池田との思いがけない出会いをきっかけに人生を切り開いた一人である。

 「私の両親は、日本が戦争に敗れた後、沖縄からアルゼンチンに移住しました。家の中では日本の標準語、ウチナーグチ(=沖縄の言葉)、スペイン語の三つを交えて話していました」。

 アリシアが11歳の時、両親は離婚し、父は沖縄に戻ってしまった。その二年後、ブエノスアイレスのクリーニング店で働いていた母のミエコが創価学会に巡り会う。

 「まず母と姉のヒトミが信心を始めました。私は反発していましたが、座談会に行った二人があんまり元気になって帰ってくるので、さびしくなって始めたんですよ」とアリシアは笑う。姉妹そろって鼓笛隊に入り、自宅は練習会場としてにぎわった。

 やがて母のミエコは、海外移住事業団で働く男性と再婚。夫の転勤にともなって東京に住むことになり、二五年間暮らしたブエノスアイレスをあとにした。日年後、二十一歳のアリシアも生まれて初めて日本の土を踏んだ。

 「新しい父は学会員ではありませんでしたが、東京の地理がわからない私を信濃町の学会本部まで連れていってくれました。私は池田先生にお手紙を書きました」。これまでの出来事をスペイン語で懸命に綴った。応対した職員の吉田喜三郎が日本語に訳し、池田に届けた。

   初めて会った人をここまで励ますのか ②


 懇談は続いた。二カ月の船旅だと聞き、池田は「船に乗ったら悪い人に貴重品を盗られないように気をつけなさい」と諭した。また寄港地を順番に聞き、「サンパウロに寄ったらこの人を訪ねなさい」「あの人にも会った方がいいよ」と紹介した。

 仙子が「父は信心しておらず、がんを患っています」と告げると、その場で「安穏」と色紙に認めた。さらに出来上がったばかりの小説『人間革命』第二巻に「逞しき福運建設に 信行学 これを人間革命というか/四月二十五日」と書いて手渡した。

「アルゼンチンはいい所だと戸田先生もおしゃっておられた。私も行くからね。その時は迎えてね」。池田は笑顔で声をかけ、玄関先まで見送った。

 30分ほどの懇談の最中、仙子は深く胸を打たれていた。

「先生はホームステイ先へのお土産まで心配してくださいました『いろんな人にお世話になるだろうから、お土産は大事なんだよ』と。なんの力もない:初対面の一学生部員を相手に、わざわざ時間を割いてここまで丁寧に話を聞き、励まされるのかと・・・・・・。あの時、心の底から『創価学会はすごい』と思いました」。


 仙子は神戸で船に乗った。出航の直前、船員から「あなた宛てに訪ねてきた女性がいる」と告げられ、驚いて会いに行った。船内まで見送りに来てくれたのは関西の女子部員だった。

 池田から関西本部に電話があり、「東京から南米に旅立つ女子部員がいる。一人で旅立つが、見送る人も誰もいないだろうから、神戸の女子部員で見送ってあげなさい」という伝言だった。

 仙子は「ここまでされるのか」と信じられない思いで花束を受け取り、日本を発った。その後、仙子は結婚し、夫の善剛とともに13年間にわたってアルゼンチン・パラグアイの草創期を奔走する。


   初めて会った人をここまではげますのか ①


 「私がアルゼンチンに渡った時、女子部は四人ほどでした」と榎本仙子は語る。アルゼンチンSGI鼓笛隊の創設メンバーの一人である。

 仙子は東京の品川に住んでいた。高校を卒業してすぐ、アメリカの大学に行く予定だった。しかし卒業直前、病気で自宅療養せざるをえなくなりい、留学の夢が断たれた。タイピストの学校を出て、旅行代理店で働き始めた頃、創価学会のことを知る。

「近所のおばさんから話を聞いて学会に入ったのですが、じつは一年でやめようと思っていました」という。しかし池田が出席した会合に参加して、人生の歯車が動き出す。池田の話を聞いて「働きながらでも大学に行きたい」と一念発起した仙子は慶応義塾大学に進学。ドイツ文学を学んだ。

「学生部の時、ある会合で池田先生が『青年よ海外に雄飛せよ』と訴えられたんです。こんな自分でもできるかもしれないと思えました」。

 そんな折、友人から「一緒にアルゼンチンにホームステイしないか」と声をかけられた。「本当はドイツに行きたかったのですが、友だちとも相談して、まずアルゼンチンに行ってみようと決めました」。そして信濃町の学会本部まで挨拶にに行った時のことである(1966年4月)。

「女子部の先輩から『ちょっと待ってね』と言われ、案内された応接室に池田先生がおられたんです。


 25歳で大学を卒業し、海外を目指す女子部員がいると聞いた池田は、仙子に会い、家庭の状況や将来の夢を尋ねた。

「緊張して、何を聞かれてもハイしか言えませんでした」。「ハイだけじゃわかんないよ」と苦笑いする池田に、仙子は思い切って相談した。「本当はドイツに行きたかったのですが、これでよかったのでしょうか」。もしも池田に会ったら尋ねたいと思っていた。

 池田は一言、「本有常住だから大丈夫だよ」と答えた。「先生の言葉の意味がわかったのは、アルゼンチンで御書(=日蓮の遺文集)を勉強している時でした」。本有常住とは『人間の生命は本来、過去、現在、未来の三世にわたる」と説く仏法の考えである。

 戸田城聖は「本有の生命、常住の仏」という表現を使い、「凡夫のわれわれのすがた自体」が仏をあらわしていく道理を説いた(『生命論』)。池田は「どこに行っても、そこに『本有常住』の『常寂光土』がある。行った場所,行った場所で、毅然と戦い、勝利を勝ち取る人、その人が真の仏法者なのである」と語っている(1993年9月10日付「聖教新聞」)。

   犬どもが吠えている ②


 「1966年のブラジルは、軍事独裁政権が君臨した忌まわしき時代であり、池田会長はそれを身をもって体験されました」。

池田との対談でエスキベルは、池田のブラジル訪問にも触れている。

「迫害された人に希望の言葉を贈ろうとする人は黙らされました」。

 また、自ら体験した「死のフライト」についても語った。「死のフライト」とは、囚人を飛行機に乗せ、生きたままラプラタ河や海に投げ落とす暗殺である。恐怖に叩き落とすために、わざと「投げ落とすふり」をすることもあるという。エスキベルの場合も未遂で終わった。暗殺の担当者は飛行機の中でエスキベルに言った。「命拾いしたな。お前を助けるためにたくさんの運動が起こっているぞ」。

 こうした迫害を生き延びた人々が、なおも抵抗を続けられた理由について、エスキベルは「強く優れていたからではない」という。そうではなく「『どんな牢獄も、自由を幽閉することはできない』と知っていたから」「『自分は独りではない。さまざまな組織や教会など多くの人たちが、私たちとともに抵抗し、祈り、戦っている』とわかっていたから」だ───そう池田に語った。

 エスキベルに対するノーベル平和賞の受賞理由には「弾圧で闇から闇に葬られた人々に光明を与えた」(堤佳辰『ノーベル平和賞』河合出版)という一言がある。闇に葬られた人々は二度と帰らない。しかし、彼らが生きて闘ったという事実をエスキベルは満天下に知らしめた。池田はエスキベルに「博士がノーベル賞に『輝いた』のではない。博士が受賞することによって、ノーベル賞の輝きが増したのです」と語った。

 池田と対談集をつくる約束を交わし、日本を離れる前、エスキベルは友情の印として池田に伝言を届けた。池田は折に触れて紹介している。

 「私は、私が信頼するひとが非難され、悪口を言われ、圧迫を加えられている時はその人に何も言いません。しかし、その人が誰からも非難されなくなった時、私は不満を述べるでしょう」───この池田への伝言を、エスキベルはドン・キホーテに由来する言葉で結んだ。「犬どもが吠えている。それは我々が馬にのって進んでいる証拠だ!」