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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   五〇年前の少年 ①


 ラテンアメリカには「海のない国」が二つある。その一つがパラグアイだ。日本人移民たちが日本政府の不十分な計画によって苦労を強いられ、「計画者が自分自身 移民する気持ちになって、研究しなければならぬ」(伊藤陽三『ブラジル新天地は招く』)、「引き受け態勢は全く出来ていなかった」(『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』)と批判された地でもある。

 「今から、ちょうど五十年前の出来事です。9歳の少年が、一家7人で、日本から新天地のパラグアイへ移住しました」 ───二〇〇五年(平成一七年)四月、都内。池田は数千人の学生や高校生、中学生たちを前に、一人の少年の人生を語った。かつての少年、カオル・クリタは檀上に座り、恐縮していた。

 「神戸を船で発って、大波に揺られながら、約八十日間。移住地に到着したのは、一九五五年の四月のことでありました」「電気や水道もない。家や道路も、ありませんでした。しかし、もう後には戻れない。この地で生き抜く以外にない──壮絶なる開拓の闘いが始まりました。(『池田大作全集』第九八巻)


 パラグアイの国立イタプア大学が、池田に対して名誉博士号を授与する記念式典である。「まさか私のことを話されるとは想像もしていませんでした」とクリタは語る。

 この日、池田はパラグアイ理事長のクリタとともに、来日したSGIメンバーを全員、檀上に招いていた。その多くが移民一世だった。

「先生は私のことを通して、多くの先輩方の努力を讃えられたのだと思います」(クリタ)。

 今、パラグアイSGIの95%はパラグアイ人が占める。その土台は日本人移住者たちが築いた。彼ら一人ひとりの証言を追うと、かつて戦争で国に裏切られ、再び移民政策によって国に苦しめられ、それでもなお信仰を糧に生き抜いた弟子たちの物語が浮かび上がった。

  移民を助けるネットワーク ②


 ベトの家族もまた、かつて池田から受けた励ましを大切にしていた。

 ベトの母である徳門トミは戦後、沖縄からアルゼンチンに渡り、1966年(昭和41年)、創価学会に入った。ベトの病気がきっかけだった。トミは娘のシルビア、スサナとともに池田宛ての手紙を書いたことがある。

「すぐに池田先生から、手紙を書いた三人に対して、それぞれ違う内容の伝言が届きました。私たちは驚きました。あの時、どんなことにも負けないで生きようと決心したのです」(スサナ・トクジョウ)。


 こうした移住者一人ひとりの軌跡を追うと、SGIは国境を超えたネットワークであることがわかる。

 タモツ・サイトウは1958年(昭和33年)、山形から家族6人でパラグアイに渡った。アルゼンチンで花卉栽培の修行中に学会と巡りあい、今はブラジルに住む。池田を迎えて行われた1984年の大文化祭をはじめ、多くの行事を裏方の一人として支えてきた。

「アルゼンチンで信心を教えてくれたタダシ・タナカさんは、ウルグアイSGIの理事長をされました。大勢の人たちが”横”につながっていますよ」と語る。

 そのサイトウがブラジルに移住した時、ポルトガル語のわからないサイトウを助け、役所とかけあい、永住権の手続きをしてくれた聡明な少年がいた。サイトウは少年に「勉強の助けになれば」と手作りの机をプレゼントした。

「サイトウさんにいただいた机は今も大切に保存しています。私はあの机で勉強してサンパウロ大学に入学したんですよ」。満面の笑みで語るのは、州立サンパウロ大学法学部教授の二宮正人である。

 労働問題を専門とする弁護士であり、「ブラジル日本移民資料館」の運営委員長、東京大学と慶応大学の客員教授などを歴任。長年にわたってブラジルから来日した政治家の通訳を担当し、池田と大統領の通訳も務めた(1984年5月)。

 また、ブラジル文学アカデミーのアダイデ総裁と池田の対談集(『21世紀の人権を語る』)をポルトガル語に翻訳したことでも知られる。

「あの対談集はサンパウロ大学大学院の国際人権法のゼミで必読文献にしています。『世界人権宣言』がどういう過程でつくられたのか、とくにブラジルがどう貢献したのかが簡潔にまとめてあるのは、あの本のしかありませんから。一言一言訳しながら、池田先生の宗教指導者としての深みを感じました」。

 今年の6月から刊行が始まったポルトガル語版『日蓮大聖人御書全集』は、二宮が監修者である。

「今から思えば、私の『初めての仕事』がSGIの方のお手伝いだったことは不思議な縁です」。

  移民を助けるネットワーク ①


 日本へ来る人も、日本を発つ人も、池田は「一期一会」のつもりで励まし続けた。そうした「心を砕く」連続が、SGIの土台になっていった。

 アルゼンチンと日本を行き来するSGIメンバーとの出会いがきっかけで、創価学会に対する見方を新たにした人がいる。徳島大学准教授の樋口直人である。

 現在、東京や大阪をはじめ、全国各地での深刻な人種差別が報道されている。樋口が書いた『日本型排外主義』(名古屋大学出版会)は、こうした人種差別やヘイトスピーチ(民族などを理由にして差別をあおる憎悪表現)を「誰が」「なぜ」繰り返すのかを論理的に分析、高く評価されている。

 これまで樋口は「移住労働者」の研究に携わってきた。

「移民に合わせて研究者も動くので、彼らのいるところならどこでも行きます」と語る。「10年ほど前から日本とアルゼンチンを往復して、これまで約400人の日系アルゼンチン人に取材しましたが、そのうち20人以上がSGIメンバーでした。


 「宗教研究の世界では『創価学会は閉鎖的だ』といわれています。ところが私が実際に会まってみると学会員の皆さんは前向きというか、親切な人が多い。むしろ他の宗教よりオープンです。社会的なネットワークも広い。『一人との出会い』を積極的にとらえていると強く感じます」

 樋口が日本に住むアルゼンチンSGIメンバーと接して驚いたのは、会話の中に「日本人の知り合いの名前」が出てきたことだという。

 「南米から出稼ぎに来た人の大半は、派遣ばかりの労働者市場ですから、日本人とのネットワークがなく孤立しています。生活の悩みがあっても相談できる日本人がいない。それは日系人であっても同じです」

 朝早く会社に行き、夜遅くまで残業して寮に戻る。そんな毎日の繰り返しでは移民同士のつながりすら途切れてします。彼らに出稼ぎの悩みを聞いても、生活に関わる「意味のある日本人の名前」は出てこない。

 数少ない例外がSGIメンバーだったという。樋口は愛知に出稼ぎに来ていた「ベトサン」「アルベルト・トクジョウ)の家族と交流を深め、その驚きを「ラティーノと創価学会」というエッセーに記した(Migrant"sネット』143号)。

 「ベト一家は波乱続きだった」───ベトは2003年(平成15年)に心臓病を患い、ペースメーカーを入れたため、負担の軽い仕事しかできなくなった。妹のシルビアも病気で手術するため仕事を休んだらクビになり、うつ病になってしまう。

 「そんななかでもベト一家は信心を忘れなかった」(同)。ベトの住んでいる地域にはラテンアメリカからの移住者が多く、毎月、創価学会の会館でスペイン語座談会を主催した。また「心の健康」を考える集いを企画し、ベトの妹が体験を語った。子どもたちにスペイン語を教えるコーナーも設けた。樋口の目には、孤立しがちな外国人が自ら文化交流や社会運動の担い手になっている姿が新鮮に映った。

 さらに、ベトが心臓病の治療でお金を使い果たし、手術を受けられなくなった時、知り合いの公明党市議が医療費を減免する手続きを教えてくれた。

「ペースメーカーを入れているなら障碍者手帳を申請できますよ」ともアドバイスされ、ベト一家は無事、母国へ帰ることができた。創価学会のネットワークがベトの窮地を救う現場を目の当たりにした樋口は、エッセーの末尾で次のように結論している。

「異郷での宗教のつながりが移民にとって社会的連帯のよすがとなっているのをみると、その積極的な機能を認めずにはいられない」。外国人労働者に対する政策は「票にならない」ため、力を入れる政治家は少ない。

「彼らに対する感受性のある公明党に、もっと頑張ってほしいと願っています」。そう樋口は語る。

 「その微笑みをなくさないように」 ②


 翌日、アリシアのもとに学会本部から連絡が来た。

「聖教新聞社まで来られますかという電話でした。母と一緒に向かうと、ロビーで池田先生が出迎えてくださったんです」。

 「待ってたよ」。そう言って池田は、驚く母娘を招き入れた。「私はしばらく日本で働こうと思っていること、アルゼンチンのSGIメンバーのために役立ちたいと思っていることを先生に伝えました」(アリシア)。池田は「立派だ」と喜び、同席していた吉田貴美郎に「先輩として彼女を守ってね。なんでも相談を聞いてあげて」と託した。

 当時(1974年)、海外から池田宛てに届く報告や手紙が増え続け、スペイン語の通訳は実質的に吉田が一人で対応していた。アリシアはそれらの翻訳や、来日メンバーの受け入れを手伝いながら日本語学校に通い、猛勉強した。通訳としても腕を上げ、池田のメキシコ指導などにも同行するようになった。

 ある年の夏休み、アリシアは一人で沖縄の那覇に向かった。

「本当の父が生きているのか知りたかったです。父は生きていました。那覇の親戚に頼んで、父の住む島に電話しました」。父は「お前を忘れたことはない」と言ってくれた。「でも会うことはできない」──再会を拒まれた。

 しばらくして、沖縄での出来事を池田に伝える機会があった。「先生から『大丈夫だ。私が見守っているじゃないか』と言われ、まるで父からの励ましのようで、その真心がうれしかったです」。


 アリシアは今、家族とブエノスアイレスに住んでいる。池田から薫陶をを受けた二十代の頃、「どんなことがあっても、あなたの微笑みで絶対にうまくいくよ。その微笑みをなくさないように」と励まされたことが、今も支えになっていると語る。

 「創価学会に入る前は、私たちのもとを去った父のことが大嫌いでした。でも今は、朝晩の勤行の最後に、いつも父への感謝の念がわきます。父のおかげで私は信心し、人生の師に会えたのですから」

 数年前、その父が亡くなった。アリシアは父が後半生を過ごした島を初めて訪れた。「父は沖縄で新しい家庭をつくっていましたが、弔問に行ってびっくりしました。父の娘さんが案内してくれたのですが、彼女も学会員だったんですよ」。そう言ってアリシアは微笑んだ。