EIKOの気まぐれ闘病日記 -16ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  父が遺した最高の宝物


 志半ばで生涯を終えざるをえなかった人もいる。岡本千鶴は高知の梼原村(当時)で生まれ育った。夫は林業を営んでいた。赤紙一枚で徴兵され、白い骨になって帰ってきた───。千鶴は夫の弟である文夫と再婚する。娘の塩川一美は「父が最初に信心を始めました。昭和29年のことです」と振り返る。

 翌年1月、土佐女子高校で行われた高知地区総会に戸田城聖と池田が出席する。この時集まった草創の1000人超の中に千鶴と文夫もいた。

 「両親が移民開拓者の募集を知ったのは数年後です。パラグアイの移住地では、道路は碁盤の目のようにそろい、季節ごとに果物がたわわに実るという宣伝文句でした。しかし移住してみるとまったく違いました」

 フジ地区と呼ばれる移住地で目にしたのは、「現実との余りにも大きな相違に驚いた。それは、現地に行けば、道路、学校、病院は完備しているという話であったが、残念ながらで出来ていなかった」「(道路も)獣道に等しかった」(『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』)とのちに厳しく批判されたとおりの現状だった。日本政府は「移民を送出するだけで受け入れに対する助成は全然なかった」(同)。


 開墾の日々は毎朝、家族全員そろっての勤行から始まった。千鶴はチラシの裏を使って、子どもたちのために「法華経」をひらがなで書き写し、小さな経本をつくってくれた。

「8キロほど先の座談会場まで、石油ランプを掲げて手をつないで歩くんです。風でランプが消えると月明かりを頼りに帰りました」(塩川一美)。

 入植から4年後のある日、夫の文夫が命を落とした。「伐採した木が引っかかって倒れる方向が変わり、頭を強く打ったんです」。

 妻の千鶴は43歳だった。5人の子どもを抱え、途方に暮れた。

 「私は10歳でした。一度は戦争で家族を奪い、戦争に負けたら、貧しい人間を労働力として海外に出し、こんな荒れ地まで追いやった。小さいながらも、日本という国はなんと残酷なのかと思いました」(一美)。

 「お父さんは亡くなったけど、最高の宝物を遺してくれたんだよ」という千鶴に、一美は「何?」と尋ねた。千鶴は「この創価学会の信心よ」と答えた。

 座談会場に行くと、一冊だけある月刊誌の「大白蓮華」から、池田の指導をチラシの裏に書き写し、あとで読み聞かせた。「母は『池田先生は世界中の困っている人を幸せにするためにがんばっているんだよ』と、物語のように話してくれました」。


 いつか日本に帰ったら、池田先生に会おう。それが千鶴の夢だった。

「母は私が目を覚ますと題目を唱えていて、寝る時も題目を唱えていました」。だが、5人の子を抱え、畑仕事を続けた千鶴は、文夫を亡くした4年後、過労がたたり、病に倒れる。

 床に伏せってからも千鶴は「絶対にこの信心を捨ててはだめよ。池田先生から離れたらだめよ」と子どもたちに言い聞かせた。赤々と燃える太陽が、耕した畑を照らし始めた時、千鶴は子どもたちの唱題の声を聞きながら静かに息を引き取った。

 「母が亡くなった後、『勤行をすれば両親に会えるかもしれない』と思って、きょうだい5人で御本尊の前に座ったこともありました」と一美さんは振り返る。

 しばらくして一美は、親戚の勧めでアルゼンチンに渡り、日本人が経営するクリーニング店に住み込みで働けるようになった。しかし「あんたは外に出たら警察に捕まるからね」と脅され、奴隷のようにこき使われた。3年間、家族に手紙を書くことさえ許されなかった。

「毎日、壁に向かって祈っていました。私のことを聞きつけたアルゼンチンの女子部の人が探し当ててくれたんです。『あなたは一人じゃないよ』と励ましてくれて、その店を飛び出しました。私のきょうだいは全員、それぞれが言葉にできない苦労を重ねました」。

 一美は1984年(昭和59年)、SGI研修のメンバーとして、25年ぶりに日本の土を踏んだ。「両親の遺影を持って池田先生と初めて会うことができました。先生は父のようであり、母のようにも感じました」。

 一美は今、大阪の能勢で家族と暮らしている。「わが子を授かった時、苦しい生活の中で母が話していたことを思い出しました。『私たちは自ら選んで生まれたのよ。だから憎んだり、恨んだりしてはいけないよ。つらいことも楽しいことも、全部一緒に受け止めていくんだよ』と。その時は意味がわからなかったのですが、母は『地涌の菩薩』について話してくれていたんだと、今になって感じます」。


  「パラグアイの土になろう」


 フラム移住地のテツオ・アタギも、宮城勘七や山本邦男とともに、初の地区結成式に参加した一人である。愛媛の柳谷村で生まれ、炭焼きで生計を立てていた。25歳の時、家庭の悩みで学会に入った。(1957年)。

「300戸ほどの集落で学会員は私一人だけでした」。二年後、妻と二人の子を連れてパラグアイへ。開墾は、原生林を切り出し、自分の家を建てるところから始まった。

 「農作業の最中、ラジオの日本語放送を聞いていたら、池田先生が第三代会長になったというニュースが流れたんです。うれしかったですよ」

 愛媛に住んでいた時、大阪府立体育会館で行われた関西男子部の総会に参加し、初めて池田の話を聞いた。───生命にかかわる重大な問題、絶体絶命の境遇に陥った時、本当の題目をあげて折伏すれば必ず宿命転換できる────この時の話が84歳の今も胸に残っていると語る

 「私はパラグアイに命を植えました。この地で最後まで生き抜きます」。


 このアタギから仏法の話を聞き、パラグアイで信心を始めた一人が長沢松太郎である。岩手の盛岡で生まれ、15歳で「満蒙開拓」に参加した。「私の青春時代は、希望や夢が次々に打ち砕かれていく時代でした」と手記に書き残している。「ソ連(=ソ連と満州)国境の守備も兼ねながら4年半、帰国したとたん徴兵で、野戦砲隊の一員として福岡へ行き、そこで敗戦を迎えた」。原子爆弾で廃墟となった広島の姿は「いまも目に焼きついています」「やり場のない怒り、暗たんたる思い」「胸がつぶれる思い」に苛まれた。

 娘のユウコ・クリタが語る。「父は日本を離れる時、『パラグアイに行けば5人の子どもたちを大学に行かせてやれる』と言っていました。実家の畑は小さく、とても学費を稼げないと考えたようです」。学歴がないために苦労した分、子どもには楽をさせたかった。

 パラグアイで入会してから御本尊が届くまでの間、松太郎は毎朝、自分の耕した広大なレタス畑に座り、太陽に向かって題目を唱えていた。いきなり猟銃を鳴らされ、脅されたことがある。「いかがわしい呪いをかけている」と誤解されたのだ。幸い、誤解は後に解けた。大雨や害虫で、農作物が一夜にして全滅したこともあった。「父の口癖は『30年後を見ろ』『冬は必ず春となる』でした」(ユウコ・クリタ)。

 夜はランプを片手に、ピューマ(アメリカライオン)やオンサ(アメリカヒョウ)の遠吠えを聞きながら、ガラガラヘビを退治しながら、妻のコヨとともに座談会や弘教に歩いた。

 池田と初めて会ったのは、アスンシオン地区の地区部長として日本での夏季講習会に参加した時だった。(1968年)。旅費は家族でなんとか用意できたが、着ていく服がなく、周りの学会員がスーツやネクタイを貸してくれた。

 池田は松太郎たちを大歓迎し、開墾の苦労、弘教の苦労を聞いた。

「帰ってきた父は、『先生は、パラグアイの人たちはもっと福運をつけて、幸せになってほしいんだと言って全員と握手してくれた。あの人についていけば間違いない』と言っていました」(ユウコ・クリタ)。

 後年、松太郎はアスンシオンの市役所そばに食料品店を出した。こまめなサービスが評判を呼び、大成功をおさめた。2002年(平成14年)、79年の人生を終えた。

 松太郎の孫娘の一人チエコ・ナガサワはパラグアイSGI女子部長を務めた。「おじいさんは家族に信心を推しつけたことは決してありませんでした。自分の姿で創価学会の素晴らしさを教えてくれました」と語る。

 その松太郎が亡くなる数年前、一度だけ自分の人生を振り返り、涙を流しながら話してくれたという。「おじいさんは『チエコ、池田先生についていきなさい。偉大な人だ』と言いました。忘れられません」。

 『わが子を全員、大学に」という松太郎の夢は、孫の代で果たされた。ユウコ・クリタの三人の子は全員、国立アスンシオン大学に進んだ。長男は五カ国語に堪能な機械工学の大学教授になり、今はアメリカで研究に励む。医学部を卒業した次男は産婦人科の病院を開き、長女は経済学部を首席で卒業した。

 松太郎の手記は、次の一文で結ばれている。「パラグアイの土になろうと決めています」。その言葉どおりの一生だった。

  移住地に届いた手紙 


 「池田先生からパラグアイに届く激励は『ひっきりなし』だったという印象が心に残っています」(ケンジ・ヤマモト)。ケンジの母の春子は、日本で行われた研修で池田と懇談する機会があった。「堂々と生きなさい。愉快に生きなさい」。帰ってきた母は、池田から聞いたこの一言を子どもたちに言い聞かせた。

 1969年(昭和44年)、パラグアイの代表十数人が日本を訪れた時には、池田は南米の同志のために木を植え、「たくさん福運を積むんだよ。パラグアイの皆さんに福運をあげたいんだ」と声をかけながら、全員と握手を交わした。そうした出会いが文字通り「一期一会」だったメンバーも多い。さらに、池田と一度も会わずに生涯を終えた先駆者たちは、もっと多い。パラグアイに戻った人々は一期一会の出会いを座談会で話し、共有していった。

 パラグアイ初代支部長の宮城勘七は、移住前、香川の木田郡で大工をしていた。息子の勝は、父が信心を始めたきっかけは戦争だったと語る。

「私のおじさん───母の妹の夫が赤紙一枚で徴兵され、足を不自由にして帰ってきました。幸せになりたい一心で、家族でいくつかの宗教を遍歴して、最後に出会ったのが創価学会でした」。

 宮城は妻のヨシコと子どもを連れてチャペスに移住した。弘教が実るたびに自分で木を切って仏壇をつくり、新入会者に譲った。

「木だけは家の周りにたくさんありましたから」と勝は笑う。

 まだ子どもだった勝は、父の勘七が数枚の便箋を手に、自宅の座談会で熱心に話していた光景を覚えている。その便箋は、東京から届いた手紙で、差出人は池田大作だった。

「父は集まった人たちに『遠い遠いこのパラグアイまで、池田会長から直筆の手紙が届いた』『これが先生の字だよ』と言って座談会で読みあげ、皆で回し読みしました」。


 カオル・クリタの両親は、この宮城勘七の紹介で学会に入った。元陸軍将校が、元大工の言葉に心を動かされたのである。

 クリタは「じつは私自身は、何年も両親に反発していたんです」と振り返る。苦学の末に夜学を卒業し、アスンシオンで雑貨屋を始めたが、人にだまされ、一万㌦の借金を背負わされた。行き詰まり、SGIの座談会にしぶしぶ参加したのは22歳の時だった。その座談会で、国際機関の職員としてアスンシオンに赴任していた榎本善剛の人柄に触れ、信心を始める。ふだんは口数の少なかった父の実は「SGIには素晴らしい青年が大勢いる。お前もその中に飛び込め」と励ました。

 クリタはその後、貿易会社に採用され、3年かけて借金を完済した。15年後、37歳でパラグアイ理事長に抜擢される。

   五〇年前の少年 ②


 クリタの家族七人が移住地のチャベスに着いたのは夜だった。一緒に移住した一〇世帯ほどの家族と、天幕を張って雑魚寝した。

「『ザーザー』という音がして、雨だと思ったら『痛い痛い!』という声も聞こえてきた。雨ではなくて、地面をアリの大群が移動する音でした。まるで黒い河です。夜が明けると、移住地はジャングルの中だとわかりました」。

 クリタの父である実は戦時中、海軍の経理将校だった。

「ミッドウェイ海戦では食料の補給を担当したそうです。敗戦後に、GHQ(連合国総司令部)で働いた後、手掛けた事業が失敗しました。その頃、南米への移民が一万町歩の大地主になったとか、大きなコーヒー農園を経営しているというニュースを聞いて、パラグアイへの移住を志したんです」

 クリタの家族に与えられた未開の土地は60㌶。木々を切り倒す道具は手斧だった。

 「両親ともに農業をしたことがなく、畑仕事をしていた祖父が、最初の二年だけの予定で一緒に移住してくれました」。しかしその祖父が、無理がたたって病死。「ジャングルの蔦でつくった担架に乗せて、20㌔離れたお墓まで遺体を運びました」。戦後パラグアイ移民の初めての葬儀だった。

 さらに父の実も、切り倒した大木にはじかれて肋骨を6本折ってしまう。日本から持ってきた時計や服や双眼鏡も薬代に消え、借金まで背負った。クリタは、母のヤスコと4人の弟妹を残して町に出た。

「パラグアイ人の家に住み込みで働き、スペイン語とグアラニー語を覚えました」。首都アスンシオンに近いサンロレンソの夜間学校に通い、週末は果物やジュースの売り子、靴磨きで仕送りを稼いだ。


 クリタが夜学に通っている頃、パラグアイSGIが小さな産声をあげた。ピラポ移住地に30人ほどが集まり、初の「地区」が誕生したのである。(1961年)。地区結成式は山本邦男・春子夫妻の家で行われた。

 邦男は日本大学の学生時代、「学徒出陣」で将校として戦地に赴いた。敗戦後はバリ島で捕虜になり、二年間の抑留生活を送った。

 山梨の実家は八端織の染色工場をしていたが、化学繊維に圧され始めていた。

「工場をたたむ時、父は仕事でつきあいのあった今村さんという壮年に折伏されました。池田先生が第三代会長になる直前の、昭和35年2月です」と息子のケンジ・ヤマモトが語る。「ラジオで『虹の国パラグアイ』と移民の宣伝をしていて、父は南方への憧れもあり、移住に賭けたのだと思います」。

 移住うちは高台だったため水がなく、15㍍の井戸を掘り、釣瓶で水を汲んだ。小学校まで歩いて1時間かかるので、ケンジは馬に乗って通った。両親は農作業を終えると馬車で弘教に走った。