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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「中学生、高校生が戦争の聞き書きを」 ①


 宮城里子は創価学会名護会館の職員だった。「それは予定にない会合でした」と語る。図書贈呈式の後、名護会館の落成を祝う「山原祭」が行われた。にぎやかな出し物も終わり、名護会館に戻った池田。居合わせた人々に「勤行しようよ」と声をかけた。里子は大急ぎで外へ駆け出した。

「会館近くのテントで『山原祭』に出演した子どもたちが着替えていたんです。高校生、中学生、小学生が30人ほど集まりました」。

 真新しい畳の上で”予定になかった”勤行会が終わった。池田は「中学生と高校生、手を挙げて」と促し、「沖縄戦の歴史は、那覇では相当の権威ある本が出ています」と切り出した。琉球政府が手がけた『沖縄縣史』。第九巻と第一〇巻は沖縄戦をめぐる画期的な証言集である。1971年(昭和46年)に第九巻が出版されると、池田は「週刊読売」のエッセーで高く評価した。(『池田大作全集』第一九巻に収録。単行本『民衆こそ王者』第一巻)。

 池田は集まった子供たちに「沖縄戦」の歴史を語った。「十・十空襲」と呼ばれる1944年(昭和19年)の那覇空襲。避難民たちが名護を含む中北部を目指し、名護街道や金部街道を埋めたこと──『沖縄縣史』(第八巻 沖縄戦通史)には<(山原では(餓死を目前にした同朋の、醜い闘争が展開された。その意味では、戦火に追われて苦しんだ南部の県民よりも、もっと悲惨な目を見た、と言えるかも知れない>と記されている。

 さらに相次ぐ空襲。海に並んだ無数のアメリカ艦隊からの砲撃・・・・・沖縄戦の概要に触れた後、池田は提案した。

「こういう状況を克明に、名護の後世のために、代々に伝えるために・・・・・お父さんやお母さんのためにも、戦争反対のためにも、事実の記録を、今からすこしずつ聞いてまとめてみてはどうか」「(記録は)残っているようで断片的ですね。また(記憶は)変形されてくる。生き証人もあと10年経つとわからなくなる。忘れてしまう。だから今からやりましょう」。


 居合わせた子どもたちの中には<はなばなしい戦争映画や少年航空兵にあこがれていた>男子高校生もいた。「コンバット」などの戦争ドラマを見て、表面的に<武器を手にした華やかな恰好よさ>だけを知っている女子中学生もいた。彼らが抱いていた「戦争」の印象は、池田が提案した「沖縄戦の聞き書き」に取り組むことによって、ことごとく打ち消されていく。

「社会のためにも、歴史の上からも、名護の町のためにも重要な仕事ではないか・・・・・皆さんは名護で生まれ、勉強した。終戦当時のお父さん、お母さんの苦しみを、厳然と残すべき権利もあるし、義務もある。そう思うが、どうですか。ぼくも応援してあげるから」。



 県民の”4人に一人”が命を奪われた沖縄戦。


 五人のわが子を失った夫人は、近所の子どもに声をかけては、


 「いくさや ならんど─」(戦争は、もうこりごりだ)と繰り返した。


 日本を守る ”捨て石”にされ、「権力の魔性」に苦しめられた悲劇を、後世に


どう伝えるか──


 創価学会第三代会長に就任した1960年以来、何度も沖縄に足を運んでき 


た池田は、七四年二月、中学・高校生の代表に「沖縄の聞き書き」を提案する。

 

 「私は戦争のために、青春を完全に犠牲にされた一人でございます。絶対に


戦争だけはさせたくない」。池田大作の声が場内に響いた。

 

1974年(昭和49年)二月9日、沖縄県名護市の北部会館。創価学会から東


村立高江小中学校に、1024冊の本と五架の本棚が贈られた。「聖教新聞」創


刊二三周年の記念事業として、6日前の竹富町立大原中学校(西表島)、4日


前の伊良部小学校(伊良部島)に続く、三校目の図書贈呈式である。屋良朝苗


知事の歓迎から始まった七度目の沖縄訪問も、8日目にさしかかっていた。


 本土復帰から二年。池田のあいさつは自らの戦争体験に及んだ


「長男がビルマで死んだ報を聞いた母親の嘆き。寡黙の、父の悲しみ・・・・自


分の生命に刻みつけました。戦争だけはしてはならない」。肺を病み、苦しんだ


ことも触れた。


 「私も戦争中は本がまったく買えなかった・・・・・」青年として、青春を送る者と


して、戦後も本は買えない。貧乏のどん底である。私は今でもその苦しみが身


について、もしも社会に出て少しでも働ける身になったら、一生涯、子どもたち


に本をどんどんどんどん贈りたい。これが私の念願でありました」


 そして「そういう私の少年時代、青春時代の心情を、心から喜んで受けてくだ


さった貴校に対し、私は私のほうから感謝を申し上げたいのであります」とあい


さつを結んだ。

 

この日、池田はもう一つ、子どもたちに語りかける場を設けている。その場で池


田は「自分たちの力で本をつくってみないか」と呼びかけた。

 皆さん、いつも私のつたないブログを読んでくださ


り本当にありがとうございます<(_ _)>


 先駆者たち─中南米篇の連載も(5)まで終了できました。


 中南米篇の連載はまだまだ続くのですが、今年は


終戦から七〇年の年を迎えますので、次回の連載


は。幸福の綴─「いくさや ならんど─」を連載します


ので宜しくお願いします。


 私の両親も戦争経験者ですし、父の兄は「特攻隊」に志願した少年兵で終戦時18歳でした。母は東京大空襲の体験者です。

 母の家は貧しくて食べるものや調味料もなく、どんぐりの粉ですいとんを作り、食べていたそうです。砂糖も醤油も入っていないため、たいそう不味かったそうで、母は決まって食べたくなくて逃げ回っていたそうです。

 皆さんは「アンネの日記」読んだことがあると思いますが、母はアンネと同じ腸チフスにかかり、死にかけたことがあるそうです。お隣の人から腸チフスにかかったのが原因だったそうですが、何とか母は助かりました。


 東京大空襲では東京が燃えているのが見えたと言っていました。当時8歳の少女だった母の心には

今でも大きな傷が残っているようです。どんなに怖かったことでしょう。

よく東京大空襲の再現ドラマをやっていますが、母は絶対見ようとしません。


 次回の連載から世界平和の願いもこめて連載していきたいと思いますので宜しくお願いします。


  「二五年先を目指せ」 ②


 パラグアイ文化会館の総会を終えた後、池田は理事長のクリタに「何歳になった?」と尋ねている。クリタは「四十七歳です。理事長になって10年です」と答えた。「正直、ほっとしていました。先生を迎えて、行事も無事故で終わって、ああ、これで使命を果たせた、と」。「まだ若いな」。池田はクリタを「二〇年、いや、二五年先を目指すんだよ」と厳しく諭した。「あの一言で、『これでいい』と決めつけてはダメだ。錯覚なんだと気づかされました。目が覚めた思いでした。

 数年後、クリタの経営していた会社は手形詐欺事件に巻き込まれた。20を

超える金融機関が倒産する、パラグアイを揺るがす大事件だった。クリタの会社も倒産してしまう。

「二五年先を目指せ、という先生の言葉がよみがえりました」。クリタはその後、タイヤ輸入と観光の会社を立ち上げ、夫妻もすべて清算した。昨年、理事長をヒロシ・カタオカにバトンタッチした。その報告を受けた池田は、クリタに「私と共に、永遠に戦おう」と伝言している。


 パラグアイ滞在中、池田が贈った和歌の中に次の一首がある。           


   天も 地も                                                 

     川の流れも

       仏土かと

          地涌の菩薩の

             君たち忘れじ


 あなた方の涙と汗が染み込んだこの国土こそ「仏土」である。自分の幸福だけでなく、他人の幸福のために人生を捧げたあなた方こそ「菩薩」である──尽きせぬ感謝を込めた一首だった。池田は末尾の「じ」を綴り終える時、一番右端の「点も地も」の真下まで、万年筆を勢いよく伸ばした。揮毫を見た人々は、なぜ最後の一文字が伸びているのか不思議に思った。池田はその理由を、こう語っている。

 「私は君たちを、どこにいても永遠に忘れない、という意味だ」


 先駆者たち──中南米篇(5) 連載終了

     

  「二五年先を目指せ」 ①


 フラム移住地に入植したヒロシ・ノナカは、岡本文夫から話を聞き、創価学会に入った。「私たちも自分たちの家をつくるところから移住生活を始めました。父は日本にいる時も兄弟から学会の話を聞いていたので、『まさかパラグアイまで来て折伏されるとは思わなかった』と笑っていました」(娘の弥政久美)。

 ノナカは高知の高岡郡で農家の三男坊として生まれた。親から「自分で財産をつくれ」と言われ、十七歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に入隊。「何年か働けば自分の土地がもらえる」と言われたが、五年後、関東軍に入隊させられた。沖縄の宮古島で敗戦を迎え、捕虜となった。

「父はこれまで戦争の話は一切しなかったのですが、最近、自分から話すようになりました。土嚢に埋もれて重機関銃を撃ちながら、米軍の集中爆撃を受けて『今度は死ぬ』『今度こそ死ぬ』と何度も覚悟したそうです」(息子のタカユキ・ノナカ)。

 パラグアイで信心を始めてから、ノナカは仕事で乗る馬の上でも御書を読むようになった。自宅の座談会で御書講義をするために自分で黒板までつくった。つい数年前まで毎年数回、往復1000㌔の道のりをバスに揺られ、アマンバイという町まで個人指導に出向いていた。

 ノナカは40年ほど前、長男の義人を事故で亡くしている。

「悲しみに暮れる父に接してきました。父は御書を真剣に学んでいたからこそ、屈せずに立ち上がれたのだと感じます」(弥政久美)。


 彼らが土台となって発展したパラグアイSGIは、1993年(平成5年)二月、池田を迎えた4日間で多くの行事を行った。

「SGIメンバーとの懇談のほかにも大統領、外務大臣、文部大臣、との会見、国家功労大十字勲章の受章、アスンシオン大学の名誉博士号授与式など、目白押しでした」(カオル・クリタ)。アメリカからコロンビア、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、チリを回り、再びブラジル、そしてアメリカに戻るという、二カ月に及ぶ強行軍の真っただ中である。

 この時、パラグアイで池田と出会った人々は、例外なく「パラグアイ文化会館で行われた総会」が心に残っていると語る。

 池田は会場に入るや「バエシャバ!(グラアニー語で『ごきげんいかがですか』)と呼びかけ、「我が愛するパラグアイの家族にお会いするために、私は初めて貴国を訪れました」と語った。『皆、立ち上がって大喜びでした。『大好きな人』という意味の『ローハイフー』を口々に叫んで、しばらく歓声がおさまりませんでした」(カオル・クリタ)。

 池田はパラグアイ滞在中、宿泊しているホテルでヒロシ・ノナカと懇談している。部屋の窓からは雄大なパラグアイ河が一望できた。「あの向こう岸はどこ?」と尋ねる池田に、ノナカは「アルゼンチンです」と答えた。「これまでの、さまざまなことを聞いていただきました」。

池田は、五十代から何度も狭心症の発作に苦しんできたノナカを、「絶対に信ではいけない。長生きするんだよ」と励ました。

 ノナカは今年、91歳を迎える。「今年の二月に父は入院したのですが、元気に退院して『これで百二十歳までがんばれるぞ』と言っています」(弥政久美)